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投稿者:
晶広
投稿日:2008年 7月11日(金)03時18分38秒
5――物語の複数性
「今と出会うために時計は時を刻む」も「君のファンタジック…なんてねっ」もリトバスも、最終的に辿り着くことが求められるのは、究極のハッピーエンド、です。ここではメタ的な眼差しによって複数の小さな物語が一つの幸せな物語へとまとめ上げられます。対して「
ハル
」(Kanon、
風見由大
)と「
フリップフロップ
」(ONE、
七瀬友紀
)はそのようなメタ的眼差しによる複数の物語の統御を放棄し、物語が無数にあるその状態自体を肯定しようとしているように思われます。ある意味では「君のファンタジック…なんてねっ」以前と言うべき状態なのでしょうが、それとはまた別の道がこの二作には開けているのではないかと私は感じています。
「フリップフロップ」にはその最初と最後に、SSの書き手の独白と読めるエピソードが配置されています。
「けれども、ぼくが物語を紡いだとき、それはつくりごとだけど、いつわりじゃなくなる。
物語の中の彼らは、自分たちが生きるたったひとつの世界の中で、大切なものを探し、掴み取ろうとする。
そして、ぼくは届けたいと思う。この世界の果てから、きみのところまで。」(「フリップフロップ」)
そしてSSであるところの「世界B」と「世界C」が交互に語られます。理論的にはD以下が無限に続きうるはずです。Zまで行ったら別の記号を割り振りましょう。こうして「世界B」と「世界C」に対してメタな立ち位置にいる「ぼく」はしかし、リトバス的全能感を発揮して作中の人物を救ったりはしません。「ぼく」にできるのは問いかけることだけです。
「ねえ、きいてくれる?」(同上)
これに対する回答は作中では示されません。何故ならこれは読者に対する問いだからです。読者に届くのかわからない物語、読者に届くのかわからない質問を、届くと信じて送り出し続ける「ぼく」の姿がここにはあります。その姿は、リトバス的全能感を欠片も持たない無力感を感じさせますが、一方で希望に溢れた感動的なものです。
一方の「ハル」はどうか。美汐とあゆが共作してKanonと思しき話を書き始める、という結末を迎える作品です。それがKanonそのものになるかと言えばそんなことはない気がしますが、ともあれ「雪が降っていた。」と一行目を書き付けた後、以下のようにSSは続きます。
「"これから"は誰にも分からない。
美汐たちが綴ろうとする物語は、果たして完成するのだろうか。」(「ハル」)
「もし、美汐とあゆの話が書き上がって。
誰か他の人が、それを読み。
種子が蒔かれ、やがて芽を出し、そして春にはたくさんの花を咲かせるように。
その誰かが、彼女たちの思いを汲み取り。
その誰かが、己の心の中から何かを見出し。
そこから、新たな話が広がっていくとしたら。」(同上)
これはむしろ「君のファンタジック…なんてねっ」に近い感覚であると言うべきでしょうか。しかし「"これから"は誰にも分から」ず、「美汐たちが綴ろうとする物語は、果たして完成するの」かもわかりません。作者と言えば小説に対してメタ的な位置を占める存在ですが、にもかかわらずここではやはりある種の無力感とそれ故の希望とが語られている、と言えます。
「フリップフロップ」にせよ「ハル」にせよ、リトバスにも登場するようなメタ的な存在が召喚されても、彼らはリトバスのように何もかもを解決する全能的な振る舞いは見せません。彼らは作品が完成しなかったり読者に届かなかったりする「現実」に脅かされ続け、それでも膨大な量の「虚構」の海の中に漂い続けます。これがたぶん、プレイヤーや読者や作者といった、創作物に対してメタ的な位置に立つ人びとの実際の姿です。私を含めて彼ら全員、少しも全能ではないのです。
4で扱ったのが「虚構世界」のような幸せをなんらかの手段で「現実世界」に実現するSSだったとすれば、ここで取り上げているのは、「虚構世界」と「現実世界」とが分かちがたく混在している世界と、その世界の内側で虚構と現実の双方を生きる人びとの姿が提示されているSSです。
ずいぶんとリトバスから遠く離れた場所まで来てしまった、とは思わないでもありません。「虚構世界」と「現実世界」を明瞭に分割するリトバスには一見まるで馴染まないあり方です。しかしだからこそ、リトバスにおけるメタ的な存在、理樹を考える上で、これは重要だと私は思います。4の最後で、理樹が余りにも簡単に全能性を獲得してしまうことの問題を書きました。物語の外側に立ちうると信じてやまない彼を、私たちは「虚構世界」と「現実世界」とが分かちがたく混在している世界の内部へと、今こそ全力で引きずり下ろすべきなのだと考えています。
終わりに
以上、リトバス以前に書かれた十一作をリトバス的に見てきました。全体的に不十分なのは自覚していまして、だからこそ「(の素描)」とタイトルにあります。5はとりわけ話が散逸したまま帰ってこなかった、と後悔しきりです。
さて1から5まで段階を踏んできましたが、1だから程度が低い、5だから高度だ、という話にはまったくならないことは、言うまでもないことではあるでしょうが念を押しておきたいと思います。また1から5へ向かうにつれて、私がリトバス自体へ批判を加える度合いは高まっていったように思いますが、これについては元々私はリトバスに対して批判的な人間なので仕方ありません。そもそもリトバスに二次創作の書き手としてかかわっている理由からして、リトバスのあのどうしようもないトゥルーエンドをどうにかしなくては、という謎の使命感にあるのです。したがってこの「リトバス的SS論(の素描)」と題された文章は、リトバスを乗り越えるSSはどのようにして書かれるだろうか、という思考の痕跡でもありえます。
ここまで読み通したひとがいるのかどうかはわかりませんが、リトバスとリトバスSSを考える上でなんらかの参考になれば幸いです。
(無題)
投稿者:
晶広
投稿日:2008年 7月10日(木)22時30分16秒
レベル低い、という言い方はちょっと穏当じゃないなあと読み返して思いました。ごめんなさい。
言いたいことと僅かにニュアンスがずれもするし、何かもう少しよい言い回しはないものか。
(無題)
投稿者:
晶広
投稿日:2008年 7月10日(木)04時26分50秒
フライング感想を書くと言ってしまったのだけれど、いやまあ書く予定ですけれど、それより先に、リトバス発売以前にリトバス的想像力を先取りしていた鍵SSについての文章を書き始めてしまった。書いていたらもうこんな時間ですよ(笑)。
(無題)
投稿者:
晶広
投稿日:2008年 7月 9日(水)02時42分57秒
なんかいろいろ問題が生じた第13回草SSですが。
個人的な問題はもう一つあって、それは私がチャットで散々、今回はレベル低い、と言っていたことと深くかかわります。もう少し絞り込めば、ギャグが大抵一定の水準を保つのに対し、シリアスなSSは一部を除いて大方駄目、という最初期から見られた傾向が今回になって極端なものとして現れたのではないか、ということになります。私は最早そういうキャラクターだと思うので言いますが、今回のシリアス作品は程度の差こそあれただ一つの例外もなく、どうしようもないなと頭を抱えてしまう惨状を呈しているように個人的には感じられました。しかもその原因は、簡単な巧拙を超えて「小説」なる不可思議な存在を捉える眼差しへまで立ち返らなければ見えてこないもののように思えました。
で。
ここでこうして愚痴を言っていても始まらないので、次回からはこのことへの返答と言いますか介入と言いますか、そのような作業を読み手として実践的におこないたいと思います。具体的に言えば本格的なフライング感想を書きたいです。書きたいです。あくまで希望です。本当に実行されるかどうかは、体調とやる気と時間的余裕によります――実行されなかった場合は単なる愚痴で終わるということで。
(無題)
投稿者:
晶広
投稿日:2008年 7月 5日(土)11時23分6秒
用事があって出かけなきゃいけないのに草SS読みきれなかった……
帰ってきてから読む暇あるだろうか……
(無題)
投稿者:
晶広
投稿日:2008年 7月 4日(金)23時56分44秒
また落としました。
草SSのいいところは、一番落としているのが主催であるため、落としたとしても、まあ主催も落としてるし……と自分を慰めることが出来る点だと思いました。
しかし書けない。
リトバスでなくても書ける話しか思い浮かばない。
しかもまったく面白そうじゃない。
構造への傾倒はいけない。
あーこの問題は放棄して別のタイプのSS書き始めるべきかなー。
(無題)
投稿者:
晶広
投稿日:2008年 6月28日(土)23時28分9秒
煮詰まりすぎてリトバスSSで何を書けばいいのかわからなくなってきた。
(無題)
投稿者:
晶広
投稿日:2008年 6月21日(土)18時43分21秒
ウルーさん
からパスが来た。二つ。
>『その境界を越えて』
>これはあれだ、大谷さんへの挑戦状じゃないのか(ぉ
仮に挑戦状であるならば作者のひとには「虚構世界理論」か「世界の果ての野球」をお読みくださいというほかありません(ぉ
まあリトバスにおける私の気に食わなかった部分を超誇張して描いていると言う意味において、読んでいる最中思わずPCの画面を叩き割りそうになるSSではありました。詳しくは感想会で。
で、もういっこ。
>『ものがたりはつづいていった。』
>この人のは大谷さんに丸投げしとけばいい気が(ry
丸投げされたー。ので、相変わらず作者ばればれの「ものがたりはつづいていった。」の読解メモを貼り付けておきます。どうせチャット中では喋れないだろうと思っていたので好都合でした。あ、でも、
>とりあえず
>>それを思うのは、夜空の星を見たとき。
>>空から落ちる雪を見たとき。
>>あぜ道にたまる泥水を見たとき。
>>夕焼けに染まる空を見たとき。
>>どこまでも続く広い海と空を見たとき
>上から小毬、姉御、葉留佳、クド、美魚と対応してる……のかな? はるちんとクドについては自信がない。
これには成程と思いました。気付きませんでした。と言いつつも微妙ですね。小毬、姉御、美魚はわからないでもないけれど、クドもシナリオ最後のところの夕空を指しているのならそうかもしれないとは思うけれど、はるちん謎すぎ。それに、
> それは、空から落ちる水の波紋を見たとき。
という離れた場所にあるもう一つの説明がつきません。
まあ事の真偽はともかく、少なくとも私の以下の感想においてはこの可能性は考慮していません、と明記しておきます。
さてスーパー深読みタイム(SFT)。この作品で重要な役割を果たしているのはずばり「水」で、冠水しきった文章の中で幾つものモチーフが水を呼び水(笑)に召喚され、水の親和力によって結び付けられる様が圧巻であるわけです。
> ここは楽しい日常。
> いつだって楽しいここは、闇の中。
とりあえずここで導入されるのが「闇」。続いて、
>『じゃあ…そうだな。花火でもするか!』
>『いよっしゃあっ!!花火だぜっ!花火!!今日こそはけっちゃくつけてやるからな!』
>『花火か…ひさしぶりだな』
> 何をするにも一緒で…彼らはもう、家族以上の存在ともいえるような間柄だった。
> とにかく、これが僕の希望だった。
> そして、未来だった。
>『花火か…あたしは線香花火がやりたい』
>『なにがたのしいんだ?すぐ消えちまうのに』
>『…きっと、それがいいものなんじゃないのか?』
> 僕は花火は消えて欲しくないと。
> そう思った記憶がある。
というように「火」が作中に持ち込まれる。「消えて欲しくない」と理樹の思う「火」をしかし消してしまう存在として、ここで「水」が暗に要請されています。
> なにか、足りないような気がするんだ。
> それを思うのは、夜空の星を見たとき。
> 空から落ちる雪を見たとき。
> あぜ道にたまる泥水を見たとき。
> 夕焼けに染まる空を見たとき。
> どこまでも続く広い海と空を見たとき。
さしあたり「綺麗な情景」を並べた、ともすればテンプレくさい列挙の中にあって僅かな違和感を醸し出す「泥水」。ここに刻まれた不穏な一語によって、僅かな仄暗さと共に作中に「水」が密かに持ち込まれます。
> でも、なにか心の中にひどく大きな隙間が開いた気がして。
> それを埋めるためなのか、涙があふれ出てきた。
と「水」の変奏である「涙」を見せながらも、「水」が読者の眼前にはっきりと突きつけられるのはおそらく以下の引用箇所です。
> それは、空から落ちる水の波紋を見たとき。
「水」。そして明言はされていないけれど「雨」。上記の「綺麗な情景」の列挙の延長線上に存在しつつも、列挙からは途切れた位置に無造作に投げ出されたこの一文には、その無造作さ故にこれまでの文章の滑らかな流れを断ち切る効果があります。その次の、
> そこは丘だった。
> とてもきれいな緑の広がる丘。
> どこまでも続いて…。
> 空と、溶け合う。
> どこまでも続く、夢の世界。
> ああ、僕は…。
>
> いつまでもこんな世界で、生きていたかったのに。
という夢の世界=「晴天」に注意を払いつつ、可視化された「水」が、遂に決定的な力を働かせる場面は無論のこと以下です。
> ぽしゃん。
>
> 水の音がした。
> 大きな、水の音。
> 僕のたからものが、落ちた音。
唐突な擬音が印象的なこの場面は、これまで出現したモチーフを一挙に結び合わせて結末へと流し込む、重要な役割を果たします。まず「ぽしゃん」と「水の音」がするというシチュエーションは、「それを埋めるためなのか、涙があふれ出てきた。」とあらかじめ書かれた「涙」を暗に示し、喪失の主題を強化します。そして「涙」と同じ「落ち」る「水」として、「空から落ちる水の波紋」=「雨」を召喚します。
> 雨が降っていた。
> 頭からつま先まで、もうびしょびしょだ。
「涙」を介して呼び起こされた「雨」が、事前に示されていた「晴天」をかき消すことによって、文章がまたもや喪失の主題へと結節しつつ、この天候不順は天候不順ゆえに作品全体に暗さを生み出します。だからこそ、
> ひどい事故だった。
> 僕しか助からなかった。
とか鬱描写が始まるわけで、その暗さから必然的に呼び戻されるのは冒頭の「闇」です。
> ここは、闇。
> ずっと僕のいたかった世界。
ここで「晴天」としての過去の思い出と、「闇」としての現在が「雨」=「水」を間に挟んで液化し、溶け合う。忘却と妄想が始まる。そして、にもかかわらず溶け切れぬ狭間から語りだされる理樹の言葉は、
> この世界は、消えたりなんてしないよね。
> でも、僕のたからものは、手の中から―――
> 消えてしまった。
とそれゆえにこその切実さを帯びます。しかしながらここは「でも、僕のたからものは、手の中から―――/こぼれてしまった」にしたほうがよかったのではないでしょうか、どうせなら「水」で一貫させましょう、とは余計すぎる口出しになるでしょうか。
以上、水→涙→雨、晴天→雨→闇、と「水」によるモチーフの連結が作品全域に張り渡されている精密さがとても素晴らしいと思います。あれ?「火」は何処にいったの?というわけで、最後にさりげなく「火」が「水」で消える場面、或いはそれを暗示する言い回しがあれば最高だったと思います。これで作者が「水」になんて少しも気を配ってなかったよとか言い出したら泣こう。
(無題)
投稿者:
晶広
投稿日:2008年 6月18日(水)00時47分56秒
管理者メニューに入れません。新しいID取れとか言われる。そういえばちょっと前にそんな表示出てたなあと今思い出しました。
で、これはどうすればいいんでしょうか。私が勝手にID取ってしまうのはまずい気がします。
リトバスは友情ではない。
投稿者:
晶広
投稿日:2008年 6月 3日(火)02時37分37秒
編集済
やっぱり語っておこうかなあ、リトバス。何故なら語りたいから。リトバスほどこうした語りへの欲望を刺激するゲームは少なくとも私にとっては他に存在しません。というわけで過去の自作の解説か未来の自作の解説にしかならないのを覚悟で語りますが、Fateは文学という類の寝言に続くものとしてリトバスは友情なるものがある気がしますが、なくてもいいのですが、いずれにせよリトバスというゲームが友情ものとして認知されているのは間違いありません。そしてこれ、かなり違う気がして私はなりません。
いや、表面的には友情でいいんですが。
実際はリトバスは家族ものの変種。というのも、「恭介・真人・謙吾」と「理樹・鈴」の間には、「友情」において一般に目指されるような対等な関係は存在せず、むしろ「親―子」の間にあるような権力関係が存在しているからです。まあ冷静に考えておかしいわけですよ――理樹の立場に立ったと仮にして、高々一歳年上に過ぎない恭介に、お前はまだ子供だの弱いだの散々に言われた挙句、強くなるよう一から十まで世話されるとか、普通に「友達」であるのだとしたらお前何様だよってぶち切れるところなのだけれども、そうはならない。その理由は「恭介・真人・謙吾」と「理樹・鈴」の関係は「親―子」だからです(恭介らはゲームの製作者だからという説明も別のレイヤーでは成立しますが)。
じゃあそうして「子」として表現される理樹ってどこにいるのか、とは疑問に思わないでもありません。
あからさまにエロゲーのメタファとしての世界観を立ち上げ、感情のメタ物語的な詐術(東浩紀)によってプレイヤーをゲーム内に引き込んだゲームであるが故に、理樹について語ることはプレイヤー自身の生について語ることととりあえず等しい(ただしここには見落としてはならないねじれが存在します。これが、とりあえず、と留保を打つ理由です)。リトバスに関する多くの文章はこの観点が決定的に抜け落ちているように感じられますが、それは置いておきましょう。では理樹によって示されるプレイヤー像とは一体どのようなものか。
地道に文章を積み上げるのが面倒なので引用しますが、ゲームの発売直後にネット上で書かれたある感想はリトバスについてこのように要約しています。「身も蓋もない言い方をすれば、ヒキコモリエロゲオタに向かって、お前ゲームなんてしてないで外出て働けよ、と説教しているゲームである」。これを書いたのが誰かといえば私なんですが、まあ何も考えないでプレイしてる私みたいな人間ですら直観的にそう思う程度にはリトバスの意図はあからさまです。弱く守られてばかりで虚構から抜け出すだけの力も持たない理樹は、大げさな言い方をすれば、ヒキコモリニートエロゲオタの鏡として用意されている(もう少し穏当な言い方をすれば、オタク的言説の内部でぐだぐだやってるひとたちの鏡、とでもなりますか――いずれにせよ、物理的に引き籠ってるひとのことを限定して指しているわけではないとは、勘違いされるととても嫌なので言っておきます)。そして今一度問いますが、理樹はどこにいる? 理樹をその似姿として要請しなければならないプレイヤーは?
まあいるでしょう、ひきこもってエロゲーやってたりするひとも。そのことの何が悪いのか、という非常に重要な問いをしかし差し当たり放置した上で、エロゲーやってる大多数は別にひきこもってなくね、とか言えるわけです(実証的なデータはないけれど)。徹夜でリトバスやったあと部屋の隅に行って膝抱えてお外に出たくないようって言い出すんなら理樹ですが、残念ながら皆さん普通にだりぃとか言いつつも学校行ったり仕事行ったり死事行ったりして、そちらでは普通に社会生活送っててたぶん何の問題もない。そして帰ってくればまたリトバスやる。
こう考えるとき、虚構の中に引き籠ってひたすらエロゲーやる弱い人間としてのプレイヤーと、そのような虚構の中から脱出して外の世界を強く生きる元プレイヤーという、極端な二つのあり様をしか提出できないリトバスは、その二項の間に存在する無限の中間項――別にひきこもってもおらず普通に社会生活とエロゲとを両立させている無数のプレイヤーたちを、完璧に抹消していることになります。無限の中間項に生きるエロゲプレイヤーを全部まとめて理樹的プレイヤーとして扱ってしまう点に、リトバスの駄目さはとりあえずあります。
気力が尽きたので続かない。
――続かないはずだったのだけれど読み返してみたら恐ろしくどうでもいいところで止まっているので僅かに追記すると、まあぶっちゃけ実際にそういうプレイヤーがいるとかいないとか現実的な問題はかなりどうでもいいのです。問題は、無限の中間項を抹消して単純な二項対立に落とし込んだ時点で、リトバスに登場する大人とか子供とか強さとか弱さとか成長とか成熟とか幼さとかそういった概念は全て胡散臭いものにならざるをえない、ということです。
ここまで書いておけば一応終われる。というわけでおやすみなさい。
以上は、新着順41番目から50番目までの記事です。
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