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(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 8月14日(木)18時47分50秒
  「この青空に約束を―」のことを書いていたら思い出しましたが、よくある再会型/王道型の幼馴染み分類法は必ずしも有効ではないのだと実感した作品なんですよね、これ。海己が再会型か王道型かと問われればまあ普通に王道型と答えるほかないのだけれど、厳密な分類をおこなえばおそらくは再会型に入るのでしょう。と言うか2ちゃんの幼馴染みリスト(エロゲーに登場する幼馴染みの名前、王道型か再会型か疎遠型かの分類は元より、年齢差、朝起こしに来るか否か、家の位置、小さい頃の約束の有無、性格まで網羅した実に馬鹿馬鹿しいリスト。更新がとまっているのが惜しい)では実際そうなっています。
 他にも「パティシエなにゃんこ」のような例、ゲーム冒頭で幼馴染みと再会するんだけど別れてた期間は一年くらいとかもう王道型と見なすほかない。いやまあ再会型なんだけど王道型の気持ちでしかゲームをプレイできない。やってないけど「さくらシュトラッセ」もそんな感じなんじゃないかと想像しています。あ、今度「さくらシュトラッセ」買ってこよう。
 


(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 8月13日(水)18時43分27秒
編集済
   誰かこの掲示板の活用法を考えてください。


 やはり「この青空に約束を―」はちゃんと考えるべきなのだろうかとふと思いました。どうしようもないくらい単純化して言いますと、リトバスからメタフィクショナルな部分を差っ引くと「この青空に約束を―」になるはずなんですね。終わりというものが見えている擬似家族的共同性に対して、男性主体はいかに向かい合うべきかといったような感じです(その擬似家族的共同性なるものにリトバスでは「虚構」が重ねあわされていて、そこのところがメタフィクションな訳ですが――尤もリトバスのメタフィクション的な仕掛けはそんな単純なものではないのは周知の通りです)。その点「この青空に約束を―」海己シナリオはリトバスとは気合が違いますが、しかしまあ私小説的観点からリトバスを語っても全然面白くないと言うか、そんなもんどうでもいいとつい先日悟ったばかりなので実はどうでもよくはあります。だって私小説的に見ると「ゲームばっかりしてないで外で遊びなさい!」的なゴミみたいな教訓しか引っ張り出せない屑ってことにリトバスがなってしまうではないですか。まあ鈴エンドで切ればそれはそれで威力の高いものになっているとは勿論思います――だからこそそのSS書いてる訳です。
 そうそう、オタク如何に生きるべきかといったような自己啓発的な問題意識に結局のところ回収されてしまう、そのことの歪さは比較的広範な作品群に指摘できる気がします(と『ゼロ年代の想像力』を読んで思った)。それってどうでもいいというか、ぶっちゃけ各々で解決してくださいということですよね。その各々を取りまとめる形で作品が規範を示すような振る舞いを見せると、もうどうしようもなくなる訳です。そのことに気付いたので――と言うか、最初から知ってはいたけれど強く実感したので、私のリトバスに対する興味の八割くらいは消え失せたも同然なのですが、それでもまだ語るべきものは残されている、とも思います。なんだかんだ言ってリトバスに付き合っていく私ですよ。最近SS書いてませんけど。SSを書かないSS書きとか駄目すぎる……ぼくはこれから読み専としていきていきます。
 話は変わりますが、『収容所群島』読みたいなあ、でも滅茶苦茶長いんだよなあ、とか躊躇っていたソルジェニーツィンが、今月の頭に亡くなっていたことを初めて知りました。と言うか、最近まで生きていたことを初めて知りました。こんな感じで脳内で勝手に殺しているひとは数知れずで、鶴見俊輔も吉本隆明もとっくの昔に死んでいると思っていた私を許してください。で、ソルジェニーツィンで思ったんだけれども私はもっと海外の小説と言うか世界文学を読まなければ駄目だよなあと。でも読まない。今日おもむろにチェスタトンの『ナポレオン綺譚』を読みたくなって検索して全然売ってなくて絶望したからです。しかしパスカル・キニャールが面白そうなので今度買って来ようかとは思っていてこちらは売ってるけど高い。文庫化してない海外作家の本はもうマジで絶望的な値段です。まあ小説以外の本がそれに輪をかけた高さであるのを見るとまだましなのかもしれませんが。


 ところでまたオリジナルの小説を書き始めました。今、四十八枚。
 

(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 8月 8日(金)18時35分22秒
   土曜日の感想会はたぶん開始時間までには家に帰れません。これでかきさんがまたバイトで時間通り帰れません><とかいう事態になったらマジあぼーんであるわけですがまあ頑張れ。感想会が終わった辺りでチャットに姿を現しはすると思いますがひょっとしたらそれも無理かもしれません。  
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月30日(水)18時19分9秒
   相変わらずリトバスSS書けてない大谷ですごめんなさい。
 なんかこのままリトバスSSに付き合っていくと書くものが悉くSFになりそうな気がしてきました。しかしSFにはまったく詳しくないし、詳しくなろうという気持ちもまるでありません。なんてこった。
 

(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月22日(火)23時13分31秒
   メールボックス確認してなくてごめんなさいorz  
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月22日(火)11時27分54秒
   というわけで変な感想のせいで大変お騒がせしました。今回チャットが荒れ気味だった気がしますがその理由の一端くらいは私が握っていたと思います(笑)。すいません。
 小説とは何か、という根源的なレベルへまで立ち返った上で草SSの作品群を眺めてみたかった、と狙いを一言で言ってしまうとそうなるのでしょうが、そんな偉そうなことが実現できていたかと言えばそんなこともなくて、感想会前、或いは後のチャットで他の方々と雑談している中で、ああ私が及ぼしたかった効果はまるで及んでないなと実感する場面が幾つもありもしましたし、私程度が一度感想書いたくらいでは影響なんぞ現れようもない、というのは健全な強靭さとでも言うべきものを草SSという場が有していることの証明でもあって、むしろこれは喜ぶべきところでしょう。


 話はまったく変わりますが、「私」と「死」と「性」って日本文学三大陳腐テーマじゃないですか(笑)。いやわかんないけどなんとなくそんな気がするし、そういう言説を幾つも見てきた気がするんですが、リトバスはこのたびこれをすべて揃えることになった。つまり死は作中に明確に取り込まれているし、「ゲームをやっている自分」について考えをめぐらす、という点に最終的に帰着するゲームである――つまり結局のところ男性主体のアイデンティティについて語るゲームであるという意味において、リトバスは優れて私小説的だし、性は元々恋愛扱ってるんで射程に入ってたものが18禁化。
 他の二つはともかくこの「私」ってのは些かまずいのではないかという気がしています。割と以前から気が付いてたんですが、私はリトバスを構造的にしか見ない癖があって、個々のキャラクターとか、個々のシナリオの解釈や分析とかに殆ど言及しない理由はこれなのですが、この見方は最後にはやはり「ゲームをやっている自分」についてしか考えられない。したがって私の書くSSもそういうものしか存在しない。はっきり言えばこれは実に不毛です。この不毛さは、原作も相当なものですが、SSを書き出すと本当に顕著になって、これはゲームと小説というメディアの差に由来するのだと思いますが――そう、リトバス的問題ってさ、ゲームっていうメディアに依存してるからSSだと書けないんですよね、最近気付いた(笑)。この隘路に入り込んでSS書けなくなってる私が言うんだから間違いない。
 いつだったかチャットでぽつりと呟いたことがあるのですが、リトバスってぶっちゃけ本当に大したことないゲームだと思いまして(笑)、理論的に先行する作品は幾らでも存在するわけです――マブラヴオルタの存在なんかを考えればリトバスに出番なんぞないと言ってもいいし、アニメに目配せをするや否やリトバス的想像力は二十年以上前に先取りされていたと言うほかなくて、これはもちろんビューティフルドリーマーのことで、あと文学では大江健三郎の『芽むしり 仔撃ち』ごめんこれはさすがに冗談です。しかしにもかかわらずどこかやってて楽しいし、二次創作を書きさえしてしまう謎の魅力がリトバスにはまあある。これはリトバスを肯定する根拠というよりは、Keyをしてこのような無残なゲームを作らせたものは何か、という考えへ私を誘う非常に否定的な材料になります。そしてたぶんこの無残さが私には単純に素通りできない大問題として映った。素通りしておけばよかったかなあ(笑)。リトバスで一番面白いのは共通シナリオだと思ってますが、要するにそれはキャラクターのポリフォニックな魅力が卓越しているということで、だとしたらそれを最終的に一本のシナリオへ取りまとめてしまう行為は後退でしかないし――。
 しかしあれですね、リトバスについて書き出すと本当に否定的な話にしかなりません(笑)。括弧笑いで適度に中和していかないと毒々しすぎる文章になってしまう(笑)。でもまあ否定的に踏み込むことでしか到達しえない領域に――リトバス大好きって人には踏み込みがたい領域に踏み込んでSSを書いている、という自負はちょっとくらいある。本当にちょっとですけど(笑)。
 
お得なプロバイダーとくとくBB

第14回草SS大会フライング感想(3)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月19日(土)03時43分7秒
編集済
  「夏空の向こう」

 冒頭の引用。

「美魚はふと、空を見上げてみたくなった。
 雲一つ無い空を、白い鳥が、たった一羽だけ飛んでいる。群れからはぐれてしまったのか、それとも、もともと一人旅だったのか。
 そうやって他愛ないことを考えているうちに、ほんの少し先を歩く理樹が、同じように空を仰ぎ見ているのに気付く。」

「空を見上げてみたくなった」という表現は勿論、実際に空を見上げることは意味しません。空を見上げることを欲する、という意味合いでしかありません。したがって次の段落の「雲一つ無い空を、白い鳥が、たった一羽だけ飛んでいる。群れからはぐれてしまったのか、それとも、もともと一人旅だったのか。」という箇所は美魚の心象風景として読まれるのが自然です。間違っても実際の空の風景ではありません。美魚は空を見上げてはいないからです。にもかかわらず「理樹が、同じように空を仰ぎ見ている」という表現が次に出てきて、どうやら美魚はいつの間にか空を見上げていることになっているらしい、と気付かされます――冒頭の一文はひょっとして、実際に見上げることを含むことになっていたのか。
 斯様にしていい加減すぎる冒頭ですが、全体としては夢オチにも似たメタフィクショナルな構造に賛否ありそうなものの、比較的よくまとまった小説と言っていいのではないでしょうか――とか無難にまとめようとしている私はもうこのフラ感書くのに明らかに疲れているわけですが、まあ悪くないとは本当に思いますが、そうした印象を平然と裏切って以下のような文章が顔を出すのは何故なのでしょうか。

「さも当然であるかのように言ってのける理樹に、美魚は表面に出すことこそしなかったが脱力するほかなかった。そもそも、元は青空と一羽の白い鳥云々の話だったはずではないのか。前後のつながりがメチャクチャだ……とまあ、そこまで考えたところで、自分にとっては避けたい話題だったのだから、一向に構いはしないはずであることに気付く。どうにも思考がまとまらない。この茹だるような熱気が原因ですね、と美魚は自覚なく理樹と同レベルの結論に達した。」

「夏休み、受験勉強の間の息抜きに小説もどきを書いてみようと思い立ったのは、単なる気まぐれだった。自分の身の回りのことに脚色を加えて書いていく形を取ったのも、また気まぐれである。強いて言えば、周りにいる友人たちは誰も彼も創作の世界から飛び出てきたかのようなおおよそ現実的でない人物ばかりだったので、話のネタには困らないだろう、と考えたのもある。別に人に見せる気もないし、一人部屋なので無断で誰かに見られる可能性も低く、なら問題はないだろうということで美魚は執筆を始めた。」

 こうした説明的な文章それ自体が小説の進行を著しく阻害するために――と言いましょうか、よほどの企みがなければさしあたり守るべきものとしてある「説明より描写を」という古典的な小説観に照らし合わせて――望ましくないことは言うまでもありません。そしてまたこの場面にあっては、会話や内心の呟きの途中においてかかる長さの思い悩みや説明を展開することはいかにも不自然ではないか、という指摘が可能でしょう。この不自然さは描写なる概念が、或いは小説そのものが原理的に孕む問題(長々と書けば書くほど小説の中の時間を寸断する)として存在していますが、詳しくは「暑い日のこと」の感想を読んでいただくことにして、さてこのあからさまな欠陥は、引用箇所を含めて、作中作が始まった直後付近と、作中作の書き手であるところの美魚が初登場した直後の辺りに頻出します。ということは要するに、新しい場面に変わったところでなされるべき情報の提示を思い切りミスっているということになりますか。何かがあからさまに説明されるのではなく、叙述自体から産出されてくるという小説的表現を求める私としては、別に説明なんてしなくてもいいんじゃないの、と無責任に言っておきます。叙述が真に優れたものであり、かつしかるべき読者に読まれるのであれば、説明などしなくても、叙述の裏側に潜んだ正体不明の、しかし不可欠な要素としてその何かは認識されるだろうからです(卑近な例を出せば、一言もそう説明してなくても自然と死亡後鈴理樹だとわかるSSってあるじゃないですか)。丁寧に説明しようとする心意気自体はわからなくもないですが、小説を書くのに必要なのはそんな通り一遍等の素直さよりもむしろ、繊細さの裏返しとしての野蛮さではないか、などと思う次第です。



「別れの季節」

 まず冒頭を読みながら、この冒頭全部いらないな、と思いました。リトバスとあまりにも無関係な格言の解説と、延々と書き続けられる既知の情報の二つしかそこには存在していないからです。加えて他の少なくない作品と同様、語りへの意識の欠如ぶりが酷いとも感じられました。

「そして、また夏がやって来る。
 別れの季節である、夏が。」

 何を語るかのみに意識が集中し、どう語るか、誰が語るか、といった要素が悉く見落とされた結果、Aと書けばAと読者に伝わる、という無邪気かつ無残な信仰だけがここには残った――と私は「夏の隙間」での感想で書き、別の作品の感想でも一度この言葉を用いましたが、この一編に対してもそのままそう書き付けましょう。一人称の話者によるあまりにも直截なこの言葉に入り込んでその意味するところを撹乱するであろう、語り手自身が持っている筈の感傷も欲望も、書き手はまったく無視しているのだろうからです。
 で、続きを読みながら、このSS全部いらないな、と酷いことを思いました。なんとなればこのSSはリトバスをやった人間にとっては既知でしかありえないイメージによって埋め尽くされているからです。それだけならばまだしも、作者はその既知の情報を、この一編を読むに当たって忘却せよと命令さえ読者にするのです。

「……まだだ。まだ足りない。理樹はまだこの世界の秘密に気付いていない。その話題を振ることが、西園にとっていかに残酷なことであるかを理解していない。
 理樹も、鈴も。あいつらが先へと歩いていくために必要なのは、まず第一に逆境にも負けない強さだ。俺たちの庇護の下から離れ、二人で歩んでいくためにそれは不可欠なものだ。けれど、必要なのはそれだけではない。」

 これが原作をやった人間には書かれるまでもないことであることを確認しましょう。原作で理樹が「よくない」を選ぶことで最終的に否定される考え方であることを含めて、読者はすべてを知っています。であればこそ語り手である恭介が感じているのであろう緊張感は、読者にとっては既知のイメージの再現と確認に過ぎない弛緩したものにしか感じられません。裏返せばここをまともに読むには、原作を一度忘れ去って、初めてこの情報に触れるようにして触れなければならないのです。そんなの無理です。
 無理であるにもかかわらず話はこのまま続きます。そして作品は修正しがたい傷を露呈させます。

「西園の言わんとするところは分かる。俺の用意した結末を拒み、諦め悪く、欲張りな選択をする。それは、つまり――。

「……無理だ。そんなことは不可能だ」

 俺だってそれを望まないわけじゃない。理樹とも、鈴とも。真人とも謙吾とも、三枝とも来ヶ谷とも能美とも、小毬とも。そして西園とも。別れずに済むのならどんなに良かっただろうか。それが可能ならどんなに良かっただろうか。」

「そんなこと」は幾つかの選択肢を適切に選べば可能であると読者は当然知っています。読者にとって既知で弛緩したものでしかない事柄を、緊張感に溢れる未知の事柄として書くこの文章は、忘却せよとの命令に従うという無理な道を選ばないのであれば、その大仰さばかりが際立つ滑稽な場面にしかなりえないでしょう。畢竟これは読者の手による読解を何処までも無視して成立した小説であると言わざるをえません。
 語りへの意識の欠如にしろ、読者の無視にしろ、作品が読まれるものである、という位相が作者からは完璧に抜け落ちているとしか思えないわけですが、私が言わんとしていることは読者に優しい、わかりやすい小説を目指しましょうなどというぬるいことでは無論なく、読者の知覚を考慮に入れて初めて小説の叙述は機能するものである――言い換えれば、どのような描写もどのような技法も、それをそのようなものとして読み解く読者の存在をあてにすることでしか成立しない、というごく当たり前の事柄です。



「魂の牢獄」

 ここまでのフライング感想を全部読んでいるという奇特な方がもしおられるとしたらその方にはこの一編に対して私が如何なる感想を寄せるか漠然と想像付くかもしれません。以下に書くのはつまるところこれまで書いてきたことの繰り返しであるからです。そして繰り返しであるが故にあんまり長くは書けません。

「鈴はもう僕と共にしか生きていけない。同時に、僕もまた鈴と共にしか生きることはできない。彼女の華奢な体を抱き、心臓の鼓動を肌を通して感じる度にそう思う。あの日から鈴は僕とのあらゆる時間の共有を望んだ。だからこそ僕らの世界はたった二人で完結している。閉じられた世界はどこにも開かれない。かつての鈴はそれを望んだし、今もそう望み続けている。」

 書いてあること自体にはそんなに反論はないわけです――死亡後鈴理樹にはどこかそういうところがあるし、私の目にはそれはある種の魅力にさえ映ります。しかしそのことを理樹の一人称で直裁に「鈴はもう僕と共にしか生きていけない。同時に、僕もまた鈴と共にしか生きることはできない。」などと書かれても、それは理樹の単なる願望或いは欲望であることから逃れられませんし、たとえ三人称で書かれようとも、こうして意味の伝達にのみ終始し、また意味の伝達こそが書き手の唯一無二の役割なのだと信じて疑わぬかの如きこの直接的な解説の何処にも、私は小説的表現の生起する光景を見ることができません。小説の叙述そのものの内に鈴と理樹のありようが深く刻印されるべきでしょうし、そうでなければ小説の書かれる意味などない、とさえ言えるでしょう。

「僕の苦悩は自業自得だ。輝かしい記憶として沈殿した過去を掬い上げ、欺瞞と自己満足にまみれた虚構世界を夢想した。その果てに低俗な創作でしかない虚構世界を現実と照らし合わせ、その乖離に苦しむ僕はあまりにも滑稽だ。」

 一番酷いのはひょっとしたらこの引用箇所の前後かもしれません。もう少し書きようがなかったのでしょうか。「夢想」する様子を、「滑稽」な様子を、どうして「描写」しようとしないのか――どうして単語を一つ書き付けるのみでよしとしてしまうのか。何かを表現しようとする意志が少しも感じられません。何を書くか、という思考のみが先行して、どう書くか、という考え方が抜け落ちている、と簡単にまとめればなりますか。
 そのことに関連して一つ指摘すれば、この理樹は随分簡単にバス事故のことに言及するんだな、というのがあります。それが悲惨すぎる忘れたい事実であるのならば、言及されないことのほうが自然ですし、とするならば必然的に、言及しないことで言及する、とでも言うべき表現がとられる必要があることになりましませんか。まあこれは一例にすぎなくてどう書こうと自由ですが、バス事故、と四文字をだけ単に書き付けられても、やはりそこに小説は生まれないことは確かだと思います。
 それにしても、いい箇所も結構ある短編では実はあって、だからこそ文句を言い募りたくもなります。たとえば「鈴の呼吸が、鼓動が、まばたきが、世界の歯車を動かす源であることを思う。鈴の吐息が、汗が、いのちが、世界の全てであることを思う。」という箇所が名状しがたい無垢さと不穏さを湛えているのは、言葉の意味にのみとどまらず、話者自身が既に常軌を逸した領域に立って語っていることがありありとわかる点に由来します。何を書くか、と、どう書くか、の相克の狭間から生み出される小説的な言葉がここには存在していると言ってもいいと思います。蝉の声なんかも結構いい象徴的効果を挙げているのではないでしょうか。少しあざとい気もしますけど。
 しかしまあ全体としては上で散々書いたとおりまったく駄目だと判断するほかありません。
 

第14回草SS大会フライング感想(2)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月19日(土)03時41分48秒
編集済
  「8月8日のデーゲーム」

 大変面白いのですが8月8日という日付の意味がわからないのですが8月16日の間違いではないのでしょうか。解説求む。
 何はともあれ優れた作品です。既に書いた他の作品への感想との兼ね合いから考えて、まず注目すべきはここでしょうか。

「彼女は伸び上がるように大きく振りかぶる。一瞬の溜め、上体が大きく沈み込む独特の軌道。ボールを握る右腕が上体とは別の弧を描く。頂点から振り下ろされた振り子の錘が、地面を掠める低さで撃ち出される。
 バッターボックス、もうひとつの円運動は既に初動を済ませ、溜めた力を解放する手順に入った。踏み出した左足に重心を滑らかに移動させ、生み出されるエネルギーをバットに伝える。
 地面すれすれから浮き上がりながら高速で迫る白球。彼我の距離が見る見るうちに消費されていく。」

 文章そのものの精度についてはまあ改善の余地がないでもないと個人的には思われますが、本当に個人的な趣味でしかない気もするので置いておきます。特筆すべきは「夏は開放的なおっぱい」の感想で、地の文においては「数秒間の出来事を数百行使って書くこともできる」と述べましたが、数百行という極端さでは勿論ないにしてもこの箇所がその実践としてあるということです。動作としては(映像としては)ほんの一瞬に過ぎないことをこうして長々と描写し出すとき、実際には存在しえない、文字によってしか存在しえない何かがそこには産出され始めます――端的に言って、ここで描写されている内容は、描写の長さや執拗さによってその正確な意味を撹乱されており、或いは不必要に正確でありすぎるために逆に輪郭が不鮮明になっており、もはや私たちが投球という語を用いるとき普通に意味する動作とは似て非なるものになっているわけです。
 このレベルの長さと執拗さを持った描写は勿論この一箇所のみですが、同じだけの緊密さは全体に見られると思います。描写によって、即ち言葉によって世界を立ち上げようとする意識は、少なくとも明確でしょう。もう一つ引用。

「理樹は変化球でカウントを稼ぐことを提案してみるが、鈴は首を縦に振らない。望むサインは真っ直ぐ。鈴は真っ向勝負をするつもりだ。
 分かっているものの、なかなかサインを出せずにいると、鈴は帽子のひさしをぎゅっと掴み、視線で訴えてくる。おとがいを汗が伝い落ちる。腹を括ってサインを出す。指は一本。しっかりと頷く。」

 まあごく当たり前になされるべき描写だろうというのはその通りかもしれませんが、それにしたって他のSSが悉く討ち死にしている中にあってはこの叙述には見るべきものが多分にあると言わざるをえません。現在形の多用による、これがまさに「今ここ」で起きている事柄なのだという宣言、次第に一文を短くしていくことで高まる緊張感、「おとがいを汗が伝い落ちる」と一見本筋とは関係のないことを不意に書き込む感覚の鋭敏さ、「指は一本。」という力強い体言止め――鈴と理樹がその最中に置かれている試合の緊張が、既にあるイメージの再現ではなしに、叙述そのものとして産出されてくるさまは賞賛に値します。だからこそ「見つめ合ったのはほんの少し。唇を引き結んで鈴が頷き、理樹も頷く。」と「描写」がなされた次の瞬間に、「それで意思は通じた。」などと「説明」がおこなわれてしまい、直前の「描写」にあった精彩が瞬く間に奪い取られてしまったり、「別に、暇だったから。実家の連中の顔も見飽きたしね。むしろ、こちらがお礼を言いたいくらいだわ」という台詞に、同じく「何に対しての礼なのかは言わなかったが、その声はとても優しかった。」と「説明」が付いてしまったりするあからさまなミスが時折見られて、目を疑いもするのですが。
 最大の不満点としては、最も優れていると言ってよい投球の描写がクライマックスに置かれていることを鑑みても、この一編はあまりにも起承転結的な「よくできた短編」の形をそのままになぞってしまってはいないだろうか、ということがあります。そうした「美学」に照応させる限りにおいて端正にできている、というのがこの一編への全体的な評価となるようにやはり思います。そしてともすれば安堵と退屈へと容易に転じうるそうした端正さを突破しうる精彩が、全体の描写に内在しているのを見て取った者としては、もっと書きようがあったのではと言いたくはなるのです。



「百ある一つの物語」

 どうすればいいんだこれは(笑)。まあ普通に感想書きます。題名は「百ある一つ」ってことで可能世界を含意している感じでいいと思いますが、中身はところどころは面白いものの全体的にはぐだぐだであると言わざるをえません。
 比較的面白く読めるのは語り手が語り手としての権利を行使し出す箇所です。つまり「どお? 少しは雰囲気が出てきたんじゃない?」と話の途中で言葉を挟んだり、「後から聞いたらしいんだけど、その時残りの三人も同じようなことを思ってたっていうんだから、傑作だよね。」と物語が終わらないうちから後日談をちらつかせたり、「――って嘘だよ、嘘。そんなオチじゃないから、安心してね。」や「めでたしめでたし――ってこれも冗談だけどね。こんな終わりだったら最初からこんな話、しないよ。」などと中断を宣言しかけたりする場面です。これらは、誰かが口頭で語っている、という今回取られている形式でしかなしえない表現であり、かつ、安定した物語の進行を不意打ちして読者を揺らがせる表現であるが故にこの一編にあって精彩を放つのですが、この語りの形式がこれら単発の表現を取りまとめる形で、小説全体に及ぼす最大の効果とは一体なんであったかを思い出すべきでしょう。即ち「これは友達の兄貴から聞いた話で、その兄貴自体も人づてに聞いた話らしいんだ。だから、信憑性なんてありゃしない」と冒頭で言及されるとおり、「信頼できない語り手」です(何それってひとはぐぐるとよいですよ)。
 にもかかわらず語り手の語りはかなりの度合いで信頼できます。何故ならこれはリトバスの二次創作であり、彼の語るバス事故も野球チームの幽霊も疑いなく存在することを読者は知っているからです。したがって本来この形式によって実現されるはずだった、信頼できない語り手による複雑で屈折した語りはまったく実現しないでしょう――語り手の思わせぶりな口調に真っ向から反して、物語はなんの障害もなくストレートに読者に伝達されるわけです。そのことの端的な証明として、Aを一人称の語り手に据えてもこの一編はなんの問題もなく成立する事実を銘記しましょう。とすれば、こうした語りの形式を採用したこと自体、単なる意匠にしかすぎないと言ってしまってよい筈です。意匠で何が悪いと言われればまあ最初に列挙したような効果はあったし別にいいんじゃないのと返すほかありませんが。
 語りへの意識、という言葉を今回のフライング感想では何度か用い、それを欠いた作品を批判の対象としてここまで扱ってきました。語りへの意識はこの作品には明瞭すぎるほど明瞭に存在します。しかしながらその語りの性質を見極めもしないで使用した結果、上で見たように内容と齟齬をきたして空転しています。「夏の隙間」への感想で、「内容」しかないシリアスとあわせて、「語り」しかないギャグをも「不毛」と評したように、語りだってあればそれでいいわけではなく、内容との緊密な関係、その相互の干渉の中から言葉がひねり出されてくるのでなければ、いい小説など生まれようもありません。



「暑い日のこと」

「世の中にはいろんな趣味の人間がいるが、少なくともやられている当事者はそうではなかった。」と「いつ恭介が思いついて我慢大会をやりだそうとしないか、そうなってしまったら理樹には止めようがない。」の二つはあからさまに意味の通らない文章なので、改善が望まれます。「そう、理樹もまた恭介の次の行動にわくわくしているのだ。」は一文で一段落をなしており、あたかも決め台詞のようにして用いられていますが、そんな今更言うまでもないことを大仰に言われても読者は困ります。
 語りへの意識の欠如、という他の感想で散々書いてきた指摘をまたもすることになります。語りと内容の間に決定的な齟齬が生じており、そのことで小説全体が違和感でいっぱいになっているからです。その齟齬はさしあたり、説明的に停滞した地の文と、現実的な時間進行にしたがった会話文との間の齟齬として現れています。語りとはすればするほど対象の輪郭を正確に描き出すことが可能になるかと言えばそんなことはまるでなく、「8月8日のデーゲーム」の投球のシーンに見られたように、逐一説明をするという行為そのものがその長さによって現実世界には存在しない時間的停滞を作中に生じさせてしまうものであって、このことにこの一編は決定的に無自覚なのです。たとえば次の会話文。

「「いや浴びせないし、わざわざ僕の近くでやらないでって言いたいだけだよ」
「んなこといったってよ、謙吾は実家に帰りやがるし、恭介も鈴をつれてどっかでかけちまったしよぉ。ここにいるしかないじゃん?」」

 こう引用すると自然に読めるのですが、実際には真ん中に長大な説明文が挿入され、次のようになっています。

「「いや浴びせないし、わざわざ僕の近くでやらないでって言いたいだけだよ」
 机をちょっとずつ動かそうとするが、この部屋の広さでは断念するしかない。それでも冷房が効いているこの部屋は出たくはなかった。まるで我慢大会をしているような心地だった。いつ恭介が思いついて我慢大会をやりだそうとしないか、そうなってしまったら理樹には止めようがない。でも結局なんだかんだで楽しませてしまう、恭介の魅力がそこにはある。だから夏休みが始まったばかりから宿題に手をつけ、いつペースが崩されてもいいように理樹は準備している。
 そう、理樹もまた恭介の次の行動にわくわくしているのだ。
「んなこといったってよ、謙吾は実家に帰りやがるし、恭介も鈴をつれてどっかでかけちまったしよぉ。ここにいるしかないじゃん?」」

 この一編で語り手が頻繁にだらだらと始めるこうした説明文は、本来上で示したように滑らかに繋がるはずの会話を引き裂き、文章に亀裂を作ります。一度「机をちょっとずつ動かそうとするが[……]」と始まった長い説明文によって生じたこの亀裂を、「んなこといったってよ[……]」と再び会話に戻るというただそれだけのことで糊塗できるのだと信じているからこそこの文章は書かれてしまっているのでしょうが、そんな都合の良い糊塗は無論不可能です。真ん中の地の文が発話中の人物の行動や心境を描写しているのであればこの亀裂は最小限に抑えられたはずですが、そうでないばかりかこの場にまったく関係のない「我慢大会」の話さえ始まる始末なのでなおさらです。
 関係ないと言えばここはその極致でしょう。

「「うお、理樹が壊れたぜ。夏すげー」
 夏休みには寮で生活している生徒はほとんど実家へと帰っていく。残っているのは事情があるか、ただ帰るのがめんどくさいのか。おかげでちょっとくらい騒がしくしたところで苦情は来ない。とはいえ、それで羽目をはずした過去の生徒が馬鹿なことをやらかしたせいで、寮の生活は不便なものになったらしいと理樹は恭介から聴いた。
「真人は無駄に元気だよねえ」」

 どのような脈絡で寮の話題がここに配置されているのかまったく不明です。
 ここでは特に酷い二箇所を取り上げましたが、同じような欠陥は全体に散見されます。繰り返しますが、何も会話にはさまれた箇所に限らず、小説において文章を長く書くという行為はそれだけで、現実的な時間の流れ方には存在しない遅延を作品にもたらします。これを適度に調節したり、「8月8日のデーゲーム」のように遅延させ続けることで独自の表現を生み出したりすることが必要です。そのことへの無自覚がこの一編の全体に漂う違和感を生んでいます。
 さて長くなっていますが視点の問題にも触れないわけには行かないでしょう。基本的には三人称理樹視点なのですが、「そう言いたげな理樹だったが、黙ってノートに目を落とした。」と多元視点になりかかったり、「両親に手を引かれる子供をぼんやりと眺めている理樹を見て、そうせずにはいられなかった。」から「気づかない理樹は幸せなのかもしれない。」があからさまに真人視点になっていたり、まるで統一できていません。真人視点の場面は本当に酷いのでなんとかしたほうがいいでしょう。視点の変化がなんらかの効果を生み出す類の技巧が用いられているわけでもないですし、単に読みにくくて混乱するだけです。
 会話の不自然さとかも気にかかるところですがさしあたりこんなところで。



「我輩は夏である」

 題名は「吾輩は夏である」の誤り。この間違いは非常に多いので注意するとよいです。
 まあ他の作品の感想で何度か言及した、内容は面白くないけれど語りで読ませるギャグ、の典型でしょう。変態理樹が暴走するギャグはもう本当に読み飽きたのですが、それでもそれなりに楽しく読めるのは理樹がその変態性ゆえに語りを暴走させていくからに他なりません。ファラオとかピラミッドとか石狩鍋とか関係なさすぎる事柄を作中に強引に導入しているのは間違いなく語りの力によるものです。しかしそうした語りとて既に紋切り型と化して久しいことは自覚しておくべきでしょう。そろそろ新しいこと書いてください。
 尤も、その新しさの可能性がこの一編の冒頭には少なくともあった、とは言うべきでしょうか――本当に夏を語り手にして全編を構成したらあまりにも新機軸すぎて大変面白かったでしょうが、残念なことに中身は常識的な三人称でした。新しさと言えば一番新しいのは最終的に襲われるのは実は理樹であるという点です。ここはまあ評価できないでもありませんが、だったらいっそ変態鈴でも書いていれば同じ変態とはいえわずかばかりの新鮮味は出たのに、とは思わなくもありません。
 面白い作品だとは思いますがあまりにも紋切り型すぎて書くことがないのでこれで終わります。短くて物足りないというのであれば、過去の類似作に寄せられた感想がこの作品にもそのまま当てはまると思うのでそちらを読んでください(勿論皮肉です)。



「未完の恋心」

 人物の内言のみで構成されたこの形式自体、個人的にはあまり馴染めないものですが、そのことはさしあたり置いておきます。
 比較的完成度は高いと思います。勿論「では、‘生きる’というのは、どういうことなのだろう?」などと唐突に考え出すことの不自然さは隠しようもありませんし、自らを執拗に「一般」の外部に置こうとする語り手の行為それ自体が構成的外部として語り手を「一般」の側へ帰属させているという馬鹿馬鹿しさも隠せてませんし、芸術観のあまりの素朴さにも凄い勢いで文句を挟みたくなりますが(ベートーヴェンの曲を聴いて「登場人物や描かれた世界、作者の想い。そういったものを読者や聴き手が感じ取」ったとしたら、それは普通、空耳と呼ばれはしませんか。音はあくまで音です)、その辺りを認めないと作品の成立自体が危うくなるので深くは言及しないことにして、問題を感じるのは音楽の描写です。

「曲が後半に差し掛かる。
変調。今度は、・・・変イ長調か。
左手で奏でるアルペジオから、臨時記号が消える。
穏やかに続く優しい音。幸せな時の継続を表現しているのか。」

 何が書いてあるのかまったくわからないのは私がここに登場する音楽用語を一つも知らないからですが、仮に私が音楽に詳しくてここで語られようとしている曲がどのようなものなのか理解できるのだとしても問題は解決しません。それは既にこの世に頑として存在する「語られる対象」を正確に写し取り、読者に伝達するものとして文章が存在している、という、私が繰り返し否定し続けているあまりにも無邪気な考え方の延長線上での理解だからです。そのような考え方に反して、小説は書かれる過程で不断に言語の力に押し流され、そのことによって、言葉でしかなしえぬ表現を獲得していくものです。引用箇所で言えば、読者の頭の中で音楽が再現されればそれでよしとする考えに徹底的に抗し、小説にしかなしえぬ表現を、音楽を描写することによって小説それ自体が実現していくのでなければ、小説が書かれる必要自体がまったくなくなります。是非ともここで、「幸せな時の継続を表現」することを、そう一言で説明するのではなく、文章それ自体が産出する形でおこなっていただきたかったと思います。
 それとも、音楽を小説で書くなんて無意味だ、音と言葉は別物だし、実際に聴いたほうが早い、とか言う向きがあるでしょうか。仮にあるのだとすれば、それなら問題ありません、音楽に限らず言葉で表現されるものは殆どすべて、元々言葉では全然なかったものです、と返答しなければなりません。風景は風景なのであって言葉ではないから風景の描写とか駄目だよね、実際に風景見に行こうぜ、とこの考え方ではなるでしょう――同じ論理を突き詰めていくことで音楽のみならずあらゆるものが書けなくなり、小説自体が断念されざるをえないでしょう。小説にあっては風景や音楽と言葉とが決して等価ではないことを自覚しつつ、そのことから小説自体の表現を生み出さなければならないのだと思います。
 話を戻しますがこことか本当に酷くないですか。

「・・・‘シ ソ♭ シ ミ♭ シ ミ♭’―――」

 この音を読者が脳内で再生すればいいのでしょうか。そんな表現とも言えぬ表現が取られることになんの疑問も感じないのでしょうか。ここではまさしく小説が断念されてはいませんか。
 しかしまあ最初に言ったようにこの形式そのものに馴染めないので、あまり感想書けないなあ、といったところで中途半端に終わります。



「夏とのお別れの日にすごした暖かな日」

 題名が既に日本語として崩壊しかかっています。せめて二つ目の「日」を「時間」にするとかしてください。「今日という日の休日」――嗚呼、減るどころか「日」が一つ増えたお。「今日という休日」にでも直すべきでしょう。一句詠むと言いながら短歌を読み出してずっこけました。百人一首という言葉が示すとおり、短歌は一首二首と数えます。幾ら説明を読んでもこの三人の海に行く理由が私にはどうしても飲み込めないのですが誰か説明してください。恭助(笑)。そんな感じで、ツッコミどころは数知れず、といったところですが、よく読むと実は悪くない気もしてきます。

「能美さんは少し迷ったようだったが元気よく頷いて駆けだしていきました。
元気なのはいいのですが、転ばないで……あっ、もう転んでしまいましたね。
能美さんは照れたように笑ってまた駆けだしていきました。わたしは小さく手を振って能美さんを見送ります。
……これでしばらくは1人ぼっちという事でしょうか?……そうなってしまうんでしょうね。
わたしはぼんやりと海と空の境界線を見ながら思います。
少し前までは1人でいる事になにも感じる事はなかったのですが…最近は1人でいる事が少なくなったせいか、少しでも1人でいると人恋しくなってしまいます。」

 洗練の度合いはまるで足りませんが、クドの行動や美魚の心情を、再現的な説明からは距離をとり、現在進行形で推移しつつあるものとして描いている叙述のこの滑らかさは注目に値すると言えるでしょう。こうした質の描写が、幾つかの例外を除いては概ね保たれているのではないかと思います。繰り返せば、洗練の度合いは全然足りておらず、したがって無条件で褒めることはできませんが。
 幾つかの例外、と書いたものも挙げておきましょう。

「わたしはそんなお2人を見ていると羞恥心よりも先に…不覚ながら笑ってしまいました。
───小さく、だけど心からの本当の笑顔で。」

「心からの本当の笑顔」と言うのが美魚自身であることから、ここには本当に「心からの本当の笑顔」なのかだろうかという疑いが不断に入り込み続けます。にもかかわらずここで作者はどうやら本当に「本当の笑顔」を書いているらしい、とも文脈からわかります。「夏の隙間」への感想で書いた私自身の文章を引用します――「何を語るかのみに意識が集中し、どう語るか、誰が語るか、といった要素が悉く見落とされた結果、Aと書けばAと読者に伝わる、という無邪気かつ無残な信仰だけがここには残った」。「心からの本当の笑顔」と書けばそれが「心からの本当の笑顔」になる、などと思うべきではありません。そのような単純さによって囲い込まれない文章を、先程も言ったようにこの一編は全体としては持っていますが、であればこそこういった微細な瑕疵は決定的なものとして作中で目立ちうるものです。
 そういえば、

「あっ、そうそう、わたしに呼びかける誰かの声が誰のものなのか、能美さんと井ノ原さんのおかげで思い出す事が出来ました。」

「あっ、そうそう」というのはさすがに緊張感なさすぎではありませんか。付け加えれば上記の「例外」には、この引用箇所より下数行、つまり結末付近のモノローグも入ります。語り手が語り手自身について語る際には要注意、とでも言っておきましょうか。



「夢の彼方」

 そろそろ書くことがなくなってきたと言いますか、他のSSの感想と同じことを述べなければならなくなってきましたが、まあとりあえず引用します。

「なぜ? 二段ベッドの空いている方を使っていたのは誰なのか。日常が崩れていく、世界が歪んでいく。」

 はっきり言いますが、これは酷い。「日常が崩れていく、世界が歪んでいく」ことが少しも叙述それ自身として立ち上がっていない――そうしようと試みる気配さえまったく存在しない。「日常が崩れていく、世界が歪んでいく」と書けばそれだけで日常が崩れて世界が歪むと本気で信じているとしか思えない書き方です。次の引用にもまったく同じことが言えます。

「ぱらぱらと佳奈多の背中の景色が壁のように剥がれ落ちていって、代わりに闇が理樹の視界を閉ざそうとする。」

 ただそう書いてあるというだけで、少しも景色は剥がれ落ちないし闇が視界を閉ざしもしません。同じ手抜きが見られる箇所としては「歌うような佳奈多の声。そこには耳を澄まさずにはいられない力がある。」や「世界がくるりと裏返った。」などを挙げても良いかと思います――つまりは全体(特に後半)に散見されるということです。常識的な意味での「リアリティ」や「臨場感」がこれらの場面にはまったくない、とでも言えば私の言いたいことの八割方は通じるでしょう。繰り返しになりますが、小説にあって言葉は既にある何かを伝達するものなどでは少しもなく、それ自体が何かを産出する過程であるところの描写としてあくまで存在し、それを欠けば瞬く間にこの一編の如き無残さを露呈します。公平を期すために言えば悪くない箇所も実は結構たくさんあるのですが、肝心なところでのこうした手抜きすぎる文章が何もかもを台無しにしていると言わざるをえません。
 短いですがおしまい。あまりにもあからさまで致命的な欠点なので、あんまり長く書けないのです。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

第14回草SS大会フライング感想(1)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月19日(土)03時40分17秒
編集済
  「夏は人を開放的にさせるよね、というようなそうでもないようなまあ要するにおっぱいの話、略して夏は開放的なおっぱい」

 題名を見た瞬間、またこのネタかーと読む気が失せました。でも読まないと評価できないので読みました。

「ほんの少し、忌々しく思う気持ちを視線に込めて空を見上げる。
 途中までは陽射しが強過ぎて、あんまり外を歩き回ってたら日射病か熱射病で倒れちゃうんじゃないかってくらい晴れてたのに、いつの間にか薄暗くなってぽつりぽつりと雨がぱらついてきた。初めこそ小降りだったけどすぐ土砂降りに変わり、丁度商店街の手前まで来ていたから、休日なのか閉まっている近くの店の軒下で雨宿りさせてもらっている。」

 最初の一文が既に意味不明です。「ほんの少し」が何処にかかるのかわからないからです。語り手はここで、ほんの少し思う、ほんの少し込める、ほんの少し見上げる、のいずれの動作をしているのか。
 また続く二文目以降は、一文目の「現在」に対して「過去」に当たります。つまり提示された「現在」について注釈をつける形で、「過去」の説明が唐突に挿入されるわけです。当然描写は滞留し、小説の進行は阻害されます。この箇所が会話文に近接していることがその阻害ぶりを更に際立たせます――数秒間の出来事を数百行使って書くこともできる地の文と違って、会話文は現実と同じ時間の中で進行する表現であるからです。とは言え一箇所だけならばさほど気にならない欠点であるとは言えるでしょう。この一編にあって問題なのはかかる手法が繰り返される点です。即ち「……だいぶ、濡れちゃったね」という台詞で再び時制は現在へ戻り、しかしわずか三行後に「天気予報じゃ、今日の降水確率は二十パーセント。」とせわしく過去の説明へ飛び、今度は長いこと帰ってこず、「腕を組み、静かに目前の光景を見つめる来ヶ谷さんに向けて、ごめんね、と謝る。」の部分でようやく現在へと描写が回帰し、ここからようやくまともに話が始まるのです。どれだけ話の始まるのが遅いのか。どれだけ語り手が好き勝手語っているのか。ここまで無造作に書かれた冒頭は読んでいてつらいものがあります。
 さて以降はこのような初歩的な欠点はとりあえず見当たりません。しかし題材がもう飽きるほど読まされてきた類のもので実にうんざりです。ならば語りで勝負する他ないわけですが、にもかかわらず語り手は常識的な語りしか展開しません。まあ語り手の変態性は僅かに感じられますが大したものではなく、たとえば題名直後「女性の胸部に対する名称は数多く存在し、そのどれもが僕らを魅惑して止まないものだ。」と語り起こしているにもかかわらず、挙げられる「名称」の数はたった四つ。二十個挙げればこの一編はなかなか面白いものに仕上がった筈ですが。小説にとって語りとは、続ければ続けるほど語られる対象が不鮮明になり、日常が非日常へと変質し、そこから小説にしか実現できない表現をひねり出すことのできる場です。その場をこうして放棄している点に、この一編のつまらなさの理由の殆どを見出すことができるでしょう。
 以上を別の角度から見ようとするとき次の文章は見逃せないだろうと個人的には思います。

「人間が雌雄一対の生物であり続ける限り、どんな虚言を弄したところで、おっぱいから性的な要素は失われない。
 僕は、おっぱいを愛している。
 それが自然なことだと、当然の気持ちだと教えてくれたのは、他ならぬ来ヶ谷さんだった。」

 まあ私は別にクィア理論の理論家ではないので本質主義それ自体を糾弾することは致しません。解説しておけば、本質主義とは物事に本質が存在し、その本質によってその物事の性質が決定されるとする考え方全般です。これに対し、物事の性質は私たちの文化によって構築されるものであり、生まれ持った本質ではまったくないとする考え方を構築主義と呼びます。「おっぱいから性的な要素は失われない」わけを「人間が雌雄一対の生物」であることに求め、加えて「自然」「当然」などという言葉を並べてしまうこの一編は本質主義に見事に浸り切っていますが、小説にとっての問題は「本質」に理由のすべてを託した段階で、それ以上語りを持続させることが不可能になる点です。具体的には、おっぱいが好きな理由を際限もなく考え始め、大仰な対物描写を繰り返しつつ、馬鹿馬鹿しい言葉と思考とを延々と積み重ねる、という表現を断念することです。それは殆ど小説が不可能になることと同義ではありませんか。
 大方の変態書きが無自覚だと思うのでここに銘記しておきますが、変態やおっぱい自体にはなんの価値も存在しません。変態やおっぱいを書くことによって可能となる表現があるから、変態やおっぱいには価値があるのです。この順序を履き違えるとき、私たちは小説を通して変態やおっぱいを見ているだけであり、小説それ自体は少しも見ていない、という領域に足を踏み入れるでしょう。そしてその履き違えを、

「幾ら言葉を尽くしたって、来ヶ谷さんのおっぱいの魅力は語り切れない。」

 という、語りの放棄を宣言し、おっぱいそのものの価値を称揚する一文に見出すのは、この考え方から上記の本質主義とそれに伴う語りの停止が導き出された以上、間違いではないだろうと思います。



「夏の隙間」

「夏は開放的なおっぱい」はしかし相対的に見れば結構面白かったと言うべきなのかもしれません。少なくともこの「夏の隙間」を読んだ後にはそう思わされます。「夏は開放的なおっぱい」が語り手を変態に設定し、中途半端だったとは言え変態的な語りを展開してはいたのに対し、この一編に見られる、語りへの意識の完全なる欠如ぶりは無残でさえあるからです。物語、人物、風景、心情といった「語られる対象」がどこかに明確に存在し、文章はそれを正確に写し取るためのものだ、などと信じているとしか思えない小説です。実際には文章が書かれる過程で、文章それ自体の持つ斥力によって「語られる対象」は不断に歪まされますし、その歪みを美的なもの、面白いもの、優れたものへと変貌させることこそが書き手の仕事です。
 語りへの意識の欠如ぶりを具体的に指摘します。

「それでも再びこの街に訪れたのは、どうしても忘れられない、忘れたくない思い出が埋まっているからだろう。

 僕は、唯一の拠り所である最高の仲間たちを。彼女は、唯一の生きる目的だった最愛の妹を。

 例え失ってしまったとしても、その輝きが褪せることはないから。どんなに心の中で謝っても、過去を取り戻すことはできないから。」

「夏の隙間」の書き手は、語り手の感情を語り手自身に直接吐露させる立場を全編を通してひたすら取り続けます。したがってここでたとえば、「それでも再びこの街に訪れたのは、どうしても忘れられない、忘れたくない思い出が埋まっているからだろう。」のみで切り、あえてその先を言わせないことによって、あからさまに書いてしまうより数倍も語り手の心中を読者に察させる、という技法などはまったく取られませんし、「唯一の拠り所である最高の仲間たち」「例え失ってしまったとしても、その輝きが褪せることはない」などといった恥ずかしい言葉が看過されもするのです。リトバスの面々が現に「唯一の拠り所である最高の仲間たち」であったことと、語り手がわざわざ「唯一の拠り所である最高の仲間たち」と述べることとの間にある決定的な差異は、ここでは少しも意識されないでしょう。実際は後者には、語り手がそのように思い込みたいという欲望、或いは聞く者にそのように思って欲しいという要求、といったパフォーマティヴな効果(「感傷的」という言葉でしばしば非難されるのもこれです)が不断に入り込みます。にもかかわらずここで語り手は、「唯一の拠り所である最高の仲間たち」と書くことによって、リトバスの面々が現に「唯一の拠り所である最高の仲間たち」であった事実を一点の曇りもなく伝えられると信じているようなのです。
 何を語るかのみに意識が集中し、どう語るか、誰が語るか、といった要素が悉く見落とされた結果、Aと書けばAと読者に伝わる、という無邪気かつ無残な信仰だけがここには残った、ということになるでしょう。その無邪気さが完璧に露呈するのは以下の部分でしょうか。

「それは、僕も持っている恐怖だ。
 佳奈多さんの為に生きて、鈴の為に生きるという決意を忘れるのが怖い。
 鈴を守れずに、結局何もできなかったのだと認めるのが怖い。
 リトルバスターズがくれた僕の強さを、無意味にしてしまうことが怖い。
 誰かに頼って弱くなってしまうことが、例えようもなく怖い。
 でもそんなことを告げるわけにはいかない。それは弱さで、それは怖いことだから。」

「そんなことを告げるわけにはいかない」のであればそもそもこの文章は書かれてはいけない筈ですが、平然と存在しています。この未熟にも程がある「怖い」の連発は、上で指摘したような、「怖い」と書くことによって語り手が怖さを感じていることをなんの問題もなく伝えられるという信仰によっています。「僕らは、不滅のリトルバスターズなんだから。」という工夫の欠片も見られない見飽きた結末もその延長線上にあると言ってよいでしょう。本当に「不滅」なのだとしたらそう言う必要さえないことに書き手の意識はまったく及んでおらず、「不滅」と書けば不滅であることになってしまう無邪気さが露になっているからです。
 畢竟この一編は「描写」が足りないということになるのではないかと思います。「唯一の拠り所である最高の仲間たち」や「怖い」や「不滅」を、直接そう書くのではなく、理樹のちょっとした言動や仕草、理樹の持っている小道具や、理樹の見る風景に託してみること――小説の書き方としてはあまりにも保守的で古典的ですが、そのようなことを守ることから始めなければどうにもならない位置にこの一編は立っていると言うべきです。
 さてここまで少しも褒めないで来ましたが、内容という観点からすればこのSSは見るべきものがあったと言えます。理樹と佳奈多の逃避行というのはこれまで存在しなかったわけで、そのことは単純に面白いですし評価できます。「夏の開放的なおっぱい」がとっくの昔に飽きた内容を相も変わらず再生産するだけだったのとは大きな違いです。ここに草SSにおけるギャグとシリアスそれぞれを取り巻く不毛が見えてくると思います――小説を「語り+内容」というふうにさしあたり分割したとき(言うまでもなく本当はこの分割は成立しません)、「内容」は見飽きたどうでもよいものながら「語り」によって読ませるギャグ、「語り」では今回指摘したような無残な信仰を嘘のように露呈させながらも「内容」はなかなかに面白いシリアス、という具合にその不毛は整理できます。



「夏色少女買物小咄」

 比較的特殊な部類に入る美魚一人称を採用しているせいか、「夏の隙間」と違って語りへの意識自体はまあ存在してはいますが、問題がないわけでは全然ありません。全体に違和感漂いまくりです。語り手の一人称に原因があるのではないかと思います。最初の地の文を引用します。

「二木さんが仕事で暇だからと遊びに来ていた能美さんと三枝さんとお話をしているうちに、暑くなってきたので扇子を取り出したら二人の感想はだいぶ違うものでした。あまりクーラーは好まないので昔から使っても扇風機ぐらいでしたが、やはりそれは最近の人としては珍しいのでしょうか。この朝顔柄の扇子はただの実用品としてだけではなく、デザインとしても気に入っているのでおばさんぽいといわれたのは少し悲しいです。」

 語り手である美魚のモノローグということになりますが、今一度これがどのような場面であるかを確認しましょう――美魚、クド、葉留佳の三人で扇子についてあれこれ話している場面です。クドと葉留佳の組み合わせでは実に騒々しいことが容易に想像されます(付け加えれば、この騒々しさはクドと葉留佳が騒々しい性格だからということにのみ起因するのではありません。キャラクターという概念それ自体がそもそもポリフォニックなものなのです。たぶん)。にもかかわらず語り手は、全編を通じてこうした態度を基本的に崩しません。こうした態度とはつまり、キャラクターが騒がしく動き回る外界の動的な描写ではなく、語り手自身の心情の静的な描写(語り手が美魚であることがこの静かさに拍車をかけています)を優先させる姿勢を指します。一般にどちらのタイプの描写がよいかは無論決定できませんが、この一編の場合は、外側でクドと葉留佳と佳奈多の壮大な珍道中が繰り広げられているにもかかわらず、それを完璧に無視して語り手の自意識へと描写が沈み込んでいくため、やはり閉塞した感じを受けてしまいます。
 その閉塞を助長させているのが会話の存在です。「夏は開放的なおっぱい」の感想で述べたように、地の文と違って会話文は、原則として現実的な時間進行にしたがいます。したがって閉塞した地の文との差異が際立って、小説全体がぎこちなくなります。そのぎこちなさを更に増幅しているのはおそらく地の文と会話文が基本的に切れていることです。つまりこの一編では会話は会話としてのみ存在しており、会話をしながらの行動、会話をしながらの心境、一人の人間が発話しているときの別の人間の言動、などが完璧に欠落しているのです。ここなどがとてもよい例だと思います。

「「サービスといってもわたしの足ではあまりサービスにならないと思いますが」
「だからもっと肉付けて、んでもってもっと日にあたって足見せつけちゃおうよ」
「いつからあなたは足を見せるのに生きがいを感じるようになったのですか」

 話を総合するともう少し体にボリュームをつけ、小麦色に焼きそれでミニスカートをはけということでしょうか。そうなった自分を少し想像してみるともはや別人としか思えない。美鳥に次ぐ第三のキャラでしょうか。ああ、美鳥だったらそういうのも似合うのでしょうが。でも美鳥が似合うのでしたら同じ姿のわたしも似合うのですか。目の前の双子を見るとお互いの格好を入れ替えても確かに似合いそうですが。」

「話を総合すると」とありますが、こうして語り手が外界を内側に引き込む形で「話を総合」してしまう行為が、個別具体的な豊かさを捨象して地の文を閉塞させ、同時に会話と地の文を切り離します。そのことが会話文自体をもぎこちないものにしています。身体や心情や周囲の状況から切断された声、というのはちょっと想像しがたいものであるからです。端的に、この一編の会話は全体的にまるで生き生きとしていません。
 騒々しいキャラクターがたくさん登場する今作には、語り手によって「総合」されない、騒々しさが騒々しさのままに表現されるような語りこそが求められていたのではないでしょうか、というところでもやもやとしたまま感想を終わります。あ、タイトルよかったです。



「私と彼女とカキ氷とキムチともずく」

 大絶賛とはいきませんが面白かったです。私もたまには褒めます。そして褒める作品というのは私がぐだぐだ言い募るような初歩的な問題は大体クリアしているので感想はあまり長くなりません。

「「まあまあ。これを見ろ」
 色々と物理法則を無視してみた。どこから取り出したかは秘密だ。私の右手にはどでかい氷が一個、「デデン」という効果音と共に登場つかまつっていた。」

 最初に読んだときなんか引用したいなーと思わされた箇所なので引用しておきます。「夏の隙間」の感想で否定した小説観(「物語、人物、風景、心情といった「語られる対象」がどこかに明確に存在し、文章はそれを正確に写し取るためのものだ」)を鮮やかに転倒させる、なかなかよくできた場面です。転倒というのはつまり、こうして姉御が氷をどっかから効果音付きで取り出すことなど、現実にはどう考えてもありえないのです。にもかかわらずこの場面が存在しうるのは、ありえないことを書いてもあることにできてしまう磁場を、小説の語り自体が発生させているからです。語りそれ自体が産出する「語られる対象」としてこの物理法則無視の氷の出現はあるわけで、これはあらかじめ存在する「語られる対象」をまっすぐに伝達するために言葉は存在するのだと素朴に信じている書き手には、絶対に書けない文章です――と言いたいところですが、ギャグには書き手に無意識にこうした描写をおこなわせる性質があるらしく(ギャグで描かれる対象は普通この世には馬鹿馬鹿しすぎて存在できないものですから当然ではあります)、この一編にあっても比較的ギャグのような書かれ方がなされているため、断言はできません。しかしまあこんな感じで全体的に優れた語りでとても面白かったのは事実です。「こんな感じで、今は結構楽しくやってる。」という結びもなかなかのもので、大騒ぎをしている描写の直後にこれが置かれる意味や、「今は」という部分から必然的に想像される過去などを含意しつつ、それらを直接には書かず一行に凝縮させる手付きが上手いです。
 ああでもタイトルは他になんかなかったのかと思わないでもありません。「真夏の雪」がタイトルだったら意味深なタイトルだなあと思って読み始めて結末のところでそんなどうでもいい意味だったのかーと脱力する羽目になってよかったんじゃなかろうか(笑)。



「なつめりんのえにっき」

 これはまったく駄目だと言わざるをえません。ごく常識的に考えて、高校生にもなってこんな幼稚な日記を書く馬鹿いねーよということになります。いやいや鈴だったらありうる、とする向きに対しては、それにしたってこの幼稚さは限度を遥かに超えているだろうと返答すると共に、「相談」を「そーだん」、「及第点」を「きゅうだいてん」と書くような安直すぎる幼稚さによって鈴的幼さの表現をおこなおうとする書き手の姿勢それ自体が、恐ろしく安直で幼稚であるとしか言えぬことを銘記しておきましょう。毛ほどの技術も要さずに書きうる安直極まりない文章を延々と書き連ねることに、もう少し疑問を持つべきです。
 鈴だったらありうる、だからこの幼稚さはあってよい、とする考え方には、また別の問題も生じます。たとえば以下の記述。

「「もっと長い文をかけ」って。じゃないと「まともな文しょうが書けなくて、しょうらい困る」らしい。
でも、りきがかわりに書いてくれるから、あたしは書けなくてもいいと思う。
だって、あたしはこの先、ずっとりきといっしょにいるんだからな。」

 特に気にもされずに読み飛ばされればまだいいほうで、下手をすれば、鈴の理樹への思いが現れていてとても良い、などという読解さえされてしまいそうな場面ですが、作者が全編を通じて無意識のうちに描き出している理樹と鈴の間の驚くべき権力関係が、ここにわかりやすく露呈していることに注意するべきだろうと思います。「だって、あたしはこの先、ずっとりきといっしょにいるんだからな。」なる一文によって糊塗されていますが(尤も、こうした一文を鈴に書かせたがり、実際に書かせてしまう何者かの欲望が既に権力的ですが)、「でも、りきがかわりに書いてくれるから、あたしは書けなくてもいいと思う。」という部分に生じかかる非対称的な関係はどうしようもないものだと言わなければなりません。鈴が何かを書くことを理樹が代行するとは要するに、鈴が理樹に発言権の悉くを奪わることを意味するからです。そしてここは、鈴が極度に「幼い」者として表象されるが故に被支配の側に無条件に追いやられ、目的を明かさぬままに絵日記を鈴に「書かせる」理樹がそのことで鈴に対して支配者の地位を占める、というSS全体の縮図でさえあります。
 目的と言えば、これに関連して恭介の立ち位置も考えなくてはなりません。割と露骨な言い方をしてしまえば、このSSは鈴を互いの間で流通させることで交流する理樹と恭介の物語なのであり、そのホモソーシャルな構図からは鈴は必然的に弾き出されます。これらは結末で面白おかしく書かれている部分ですが、ここもまた、鈴を排除しつつ所有はする、という権力関係の表現として読まれうる場面になっており、見逃せるものではありません。
 さて、このSSに登場する鈴と理樹が実際にそのような酷い権力関係の中にある、と言いたいのでは無論ありません。しかしそのような権力関係(或いはそうした権力関係を隠しつつも構築したい何者かの欲望)が図らずも表現されてしまっている場としてこのSSがあるのは事実ですし、それは「だって、あたしはこの先、ずっとりきといっしょにいるんだからな。」なる感性によって糊塗され懐柔されているぶん、その糊塗と懐柔が作者の無意識のうちの筆による点も含めて、あからさまな権力関係よりよほどたちが悪いと言うべきです。そしてこうした惨状を見るにつけ、私はやはり、この幼稚さは鈴ならありだ、などとする意見には絶対に与しません。
 ところで以上のような指摘は必ずしもこの一編に固有の問題であるわけではありません。今回ほど前景化しないにせよ同じような問題点を内包したSSはかつて幾つも存在しましたし、今後も生み出されていくでしょう。そのことにこうして執拗に抵抗するのは、鈴と理樹のペアが好きだからであり、このような権力関係に抵抗しうるだけの関係の二人であると信じているからであり、その抵抗をエクリチュール自体に刻み込んだSSの到来を期待しているからです(ともすればこのような都合の良い権力関係を望んでしまう自分に対する嫌悪の念も、まあ少しはあるかもしれません)。であればこそ、このような鈴と理樹の表象を、私は看過せず何処までも批判し続けます。
 

(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月16日(水)23時28分34秒
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