投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助動画検索<OBJECT>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ teacup.コミュニティ ] [ 検索 ]

投稿募集! スレッド一覧

スレッド作成 他のスレッドを探す

[PR] スタッフアルバイト  長崎の求人・転職 還暦 祝 プレゼント 物流費
teacup. ] [ 無料掲示板 ] [ プレミアム掲示板 ] [ teacup.コミュニティ ] [ ブログ ] [ チャット ]
【From teacup.】この掲示板は投稿が一定期間無いため、各記事中に広告を表示しています。

全145件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  |  《前のページ |  次のページ》 

(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 9月23日(火)14時59分3秒
  そしてえりくらさんのSSの感想が一番適当だったというオチw  


(無題)

 投稿者:えりくら  投稿日:2008年 9月23日(火)03時13分30秒
  脅してないけど、感想書いてくださってありがとうございましたw  

(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 9月20日(土)23時29分38秒
   下の長々としたフライング感想が見ていて自分でも痛いので早々と流したいところなのですが書くネタが何もありません。ゆのつさんやいくみさんがやっている100質をやろうかと思ったけどああいうのは手の内を曝すことになるわけだしそれ以前に曝すような手の内がそもそもないことがばれるので書きたくないのだ。というか質問自体に突っ込みを入れまくる嫌な回答者にしかならないのだ。オリ4の時もそんな感じで質問に答えなかった気がします。
 オリ4で思い出したけれど、最近、こんぺ的共同体が緩やかに解体されていっているように感じられて、しかもそれをあまり残念なことだと思っていない自分がいます。ネットのコミュニケーションは創作物を書いたり評したりするにはやはり直接的すぎてつらい。草SSは現在進行形でつらい。


 かのんには感想書きました。えりくらさんに書けって威されたから。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 9月12日(金)17時27分17秒
   F-15が撃墜されるシーンから始まるエロゲーを終わらせた後ニュースサイトを見たら、現実世界でF-15が落ちてた。

 散々書くと言っておいてかのん落としました。ごめんなさい。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 9月 6日(土)16時33分7秒
   ナボコフの『透明な対象』を読了。
 ところでクロスネットというブランドから出ている「はっぴぃ☆マーガレット」というエロゲーがあります。結構面白い幼馴染みゲーです。記憶に頼って書くので間違いがあるかもしれませんが、このゲームの中で、主人公達が学校の図書館に行って、主人公が書架から適当に本を引き抜いてみたところ出てきたのが『透明な対象』で、それを見たヒロインの一人が主人公に、君がその本を手に取るなんてなんだか意味深だねえ、みたいな感じのことを言うシーンがあったはずです。当時は言ってる意味わかりませんでしたが、『透明な対象』を読んだ今となってもさっぱりです。なんだったんだあれ。
 

(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 9月 1日(月)15時35分40秒
   またしても長々とフライング感想を書いてしまいました。色々と酷いことも書いています。後になって読み返すと、さすがにもう少し自重しろよ、と自分でも普通に思います。
 更に、昨日チャットでも言ったことですが、斯様に小説について長々と感想を書き記す時、試されているのはどう考えても小説の方ではなく、私の読み手としての技量の方なのです。馬鹿なことを書けば容赦なく指差して笑われます。とても怖いことです。
 そんなわけで感想を書くというのはとても鬱な行為なのでありました。もう二度とやりません――と毎回決意しつつ、しかし暫くするとまたやってしまうのですが。
 
お得なプロバイダーとくとくBB

第16回リトバス草SS大会フライング感想(3)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 8月30日(土)22時23分54秒
編集済
  「居眠り少年は空の隙間に極彩色の夢を見る」

 実を言うとこれの真面目な感想は書きたくないのです。前回と今回とで繰り返し繰り返し言ってきたことの、何度目になるかわからない繰り返しにしかならないからです。しかし思えば私はこのような作品を撲滅するために(笑)フライング感想を書き始めたのでした。なので繰り返しではあっても書こう、と思いを新たにした所存です。初めに言っておけば、結構好きなSSではあるんですが(双子の兄妹いいよね)、どうしようもない下手さです。普通に読める日本語を書ける、という意味合いにおいてはなんの問題もないだけに、小説の下手さが余計に際立ちます。
 基本的なことから確認しておきます。描写をする、というのは近代小説の基本事項ですが、その目的とするところが、描かれる対称を正確に写し取ることであるとする時、描写という概念は大きな矛盾を抱えることになります。
 第一、時間的矛盾。今私の机の上に私の携帯電話が置いてありますが、これを仮に「auの携帯電話で、色は黒く、充電器につながれ、……」と二十行描写したとしましょう。二十行書いたら、二十行ぶんだけ、携帯電話は正確に描き取られたでしょうか。まったく違います。なぜなら私たちは実際には、携帯電話を、その全体を、一瞬で見るからです。描写をする、という行為は斯様に、現実では一瞬で認識されうる事柄を、五行、十行、二十行、と実際には存在しない、時間の停滞を伴いながら表象することに他なりません。
 第二、空間的矛盾。今私の机の上の携帯電話の隣には、コーヒーカップが存在します。ところでこの携帯電話とコーヒーカップは、当たり前のことながら、現実には同時に存在しています。しかし私たちは言葉でその光景を描写しようとする時、「机の上には携帯電話があった。その隣にはコーヒーカップが置かれている。」というふうにしか書けません。即ち二つの事物が同時に存在する空間を丸ごと描くことはできず、最初に携帯電話が存在し、次にコーヒーカップが存在する、というタイムラグを発生させ、同時性を分断させざるをえないのです。
 言うまでもなくこの二つの矛盾は別々に存在しているわけではありません。「机の上には携帯電話があった。auの電話で、色は黒く、充電器につながれ、(二十行略)。その隣にはコーヒーカップが置かれている。」とか書けば、第一にそこには時間的な矛盾が生じ、第二に空間的な矛盾が大きくなります。――つまり描写とは、描かれる対称を正確に写し取ること、というその目的に殆ど相反するように、おこなうことによって描かれる対象の輪郭をどんどん不鮮明にしてもいくものなのです。
 こうした矛盾を放置する場合、小説内部の時間と空間はずたずたに引き裂かれますから、整合性のある「物語」はその成立が危うくなります。「物語」を語ることが目的でない時にはこの現象は起きてもまったく構わないどころか、むしろ積極的に利用すべきでしょう。しかし「物語」を語ろうとする時にはこの矛盾を適度に調整することが必要になるのは言うまでもありません。
 以上が「描写」という行為のごく基本的な性質です。
「居眠り少年は空の隙間に極彩色の夢を見る」は一言で言えば、この基本的な性質をまったく認識しておらず、それゆえ調整をおこなうこともなく、結果として、まともな日本語で書かれているにもかかわらず読むに耐えない代物に仕上がってしまった小説である、と言えます。

 鈴は床に座り込み、薄汚れた子供用のゴムボールを膝の間で転がして遊びながら気のないそぶりだ。長く伸びた前髪が窓から射す夕日で影になっていて、ベッドの上にいる僕からは鈴の表情が見えない。思えば、今日の昼頃にこの病室を訪ねてきた時から手にしていたゴムボールだ。落ちていたにしても、なぜ拾ってきたのだろう。そんな汚いボールを拾って来なくても、他にも何かあっただろうに。それでも鈴はまるで、それ以上の物は無いとでも言いたげに、僕と話している最中も手の中でにぎにぎしたり、放り投げてお手玉したり、壁にぶつけて一人キャッチボールをしたりしていた。

「ベッドの上にいる僕からは鈴の表情が見えない。」まではまあ普通でしょう。しかしそれ以後も延々と描写が続きます。そしてその描写は、既に起こったことへの説明や注釈としてしか機能していないため、小説内部の時間は描写が続く間、まったく進行しません。同様の停滞は、この一編にあって(途中に挿入される夢の部分も含めて)全体に見出すことができます。この作品における描写には、時間が少しも流れていないのです。
 時間的停滞をこの小説にもたらしているのが「描写」だとすれば、時間を進行させるのは「台詞」です。なぜなら台詞とは、上で説明したように時間的停滞を本質的にもたらす「描写」と違って、現実と同じ時間進行に則るからです(一秒間の出来事を百行使って描写することは可能ですが、一秒間の台詞はどう頑張っても一秒間以外の何ものでもありません)。したがって、上の引用箇所の直後でもそうですが、次のようなことが起こります。

 突っ込んでも突っ込みきれない人と対する時、これは僕のスルー技能が試されているんだと思えば大抵のことは流してしまえるのだと最近になって気付いた。もちろん高町さんは突っ込んでも突っ込みきれない人などではなく、テンションは高めだが面倒見が良く優しい普通の看護師さんだ。ただし年齢の話をすると、眉間の皺が寄ったまま半日くらいは戻らなくなる。
「今日鈴ちゃんは何時くらいに来るの?」
「さぁ、いつもは昼過ぎくらいですけどね……休みの日はいつも昼前くらいまで寝てるんで、昼過ぎないと活動できないんです、あいつ」
「ふーん、よく知ってらっしゃる……さすがお兄ちゃん」

 最初の、「高町さん」にまつわる描写には、例によってまったく時間が流れていません。しかし台詞は本質的に現実の時間進行に則るので、「今日鈴ちゃんは何時くらいに来るの?」という台詞が書き込まれた瞬間、時間は唐突かつ無造作に流れ出します。この一編における描写には時間が流れていないため、描写によって物語を進行させることはできませんから、物語を進行させるのは台詞の役割です。引用箇所直後の、地の文をほとんど伴わない高町さんとの会話にそれは明らかです――物語をまともに進行させようとした時、この一編は地の文を排除するほかにすべを持たないのです(しかし高町さんの長々とした台詞に明らかなように、台詞でさえ時には停滞感を伴った説明へと堕します)。
 時間の少しも流れていない停滞した描写がだらだら続くところへ、時間が普通どおり流れている台詞が唐突に現れて唐突に時間を元通りにする。そしてまた描写が始まって時間が停止する。――この一編は叙述という側面から見た場合、ほとんどこれの連続でしかありません。記述の様態と速度をコントロールするという、小説を書くにあたっての初歩的な行為さえなされていない、驚くべき単調さです。したがってこの一編は、読む快楽から決定的にかけ離れた、面白くもなんともないものである、と言うしかありません。
 
ケータイで撮った動画を掲示板に投稿

第16回リトバス草SS大会フライング感想(2)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 8月30日(土)15時44分29秒
編集済
  「居眠り少年は空の隙間に極彩色の夢を見る」

 鈴と理樹が双子の兄妹?
 はあ?何それ?
 ちょっとこの設定で今からSS書いてきます。
 しかし作者は惜しいことをしてしまったと言わなければなりません。双子の姉、にしたら数倍萌えた。間違いない。だって鈴が姉だよ? そのありえなさが逆にいい。これは看過しがたい大いなるミスです。異論は認めません。
 真面目に感想を書くべきだろうか――。



「Primal Light」

 最初、鈴が難病で死にかけてるのかと思って、何この鬱SSとか思ったのですが違いました。
 墓参りというシチュエーション、「未来」や「始まり」といった単語、妊娠というモチーフの用い方――死亡後鈴理樹やアフターSSに対して私たちの抱いているイメージやテンプレートや既成概念の輪郭をそのまま忠実になぞったようなこの一編が、今新たに新作SSとして書かれる理由も、新作SSとして私たちが読まねばならぬ理由も、私にはどうしても理解ができませんが、これは最早ウルーさんのちらりと言うが如く墓参りギャグでも書くしかないのでしょうか。
 なにやら感想として書くことがいまいち思い浮かびませんが、Foolisさんとウルーさんが意見を対立させている件の記述は私も気になりました。

僕らは望んで共に居る。雨の日には濡れて、晴れた日には乾いて、寒い日には震えて、雪の日には凍えて。そうやって一緒に過ごしてきた日々は、決して傷の舐め合いなんかじゃない。

 ここのことですが、正直言ってFoolisさんに同意かなあと思います。そんなに考えられて書かれた一編であるとはどうしても感ぜられないからです。作者はマジになって書いていて、読者にとってみれば否認にしか見えない、とそういう場面でしょう。とすれば、

 人はみんな独りで、それでも生きていく、いや生きていけてしまうのかもしれない。それが酷く悲しいことだと知ったとき、僕らは手を繋いだ。それは弱さではないと僕らは知っている。

この文章なんかも、最初の引用ほどは酷くないにせよ否認に見えてしまう気がします。しかしながらまあ私にはむしろ、「僕らは望んで共に居る。」と鈴の内面まで勝手に代弁し、「雨の日には濡れて、晴れた日には乾いて、寒い日には震えて、雪の日には凍えて。」などと無意味に詩的な言葉を連ね、後の引用箇所の直後に「身体の震えと涙は、見なかったことにしてあげよう。ここを出たら、抱きしめてあげればいい。」とか一方的に言い出してそのことに疑問を抱きさえしない一人称の語り手の、その目を覆わんばかりの感傷と身勝手さのほうが気になります。こうして引用したときこれはグロテスクでさえありませんか。
 一人称の小説は常に、語り手の一方的な言葉です。そのことを作者は思い出すべきであると思います。



「Refrain」

 中盤における恭介と小毬のやり取りの、本当に頭を使って書いたのだろうか、ネットのどこかにテンプレでも落ちていてコピペしたんじゃないかと疑いたくなるような、驚くべき陳腐さと平凡さと退屈さはもうこの際どうでもいいということにしましょう。もうどうにもならなそうなレベルだからです。
 ところでこれは実は結構上手いSSで、「それが、この世界だった。」というふうに「世界」の内側から言葉を発したかと思いきや、直後に「その世界の結末は、ひどいものだった。」とあたかも世界の外に立ったように語る、という「この」「その」の不自然な使い方に見られる語り手の奇妙な語りは、「あの日、恭介さんは応えてはくれなかった。」といったふうに虚構世界最後の日からの回想という形を取ることで、なるほど虚構世界の崩壊の直前であるならば、虚構世界の内側にいながら既に外側にいるかのような語りにはなるだろう、と納得されるに至るのです。(追記――普通にこれ読み違えですね。まあ回想形式が綺麗に決まっているのは事実だと思います。)
 ていうかもう個人的に「ナイスふんわり感」という単語がやばすぎるのです。この近辺の小毬の意識の組み立て方は素晴らしい。

 手摺りを乗り越えて飛び降りたら、死んじゃうだろうか。こんな世界だから、ナイスふんわり感でうまい具合に着地できたりしないかな。そしたら、グラウンドまで一直線に駆けていって――想像の中の私は、何もないところで何度かこけていた――そして、言うんだ。私もまぜて!
 そんな夢想をしているうちに、世界は紅に染まっていた。
 さいごのゆめ。

 口語と文語の自然な混交は、勿論夢想と現実の対比を作中に持ち込んでいるからに他なりません。話者の意識が一箇所にとどまらずに、奇妙な想像がまた新たな想像を生むという形で高いテンションを保ったまま口語を進行させていったところで「世界は紅に染まっていた。」と落とし、「さいごのゆめ。」なる一語をぽーんと投げ出す。ナイスふんわり感たっぷりの滑らかな叙述を最後で唐突に断ち切る――物語的に結末を迎えたとかそういう内容的なレベルでの現象ではなく、叙述そのものが急落する形で「さいごのゆめ。」が来るから、ここの言葉には小説的な強度が生まれるわけです。
 こんなふうに書けるひとが、どうしてあんな無残な中盤を書いてしまったのか。



「例え遠く離れていたとしても」

 卒業式そのものや恭介卒業SSに対して私たちの抱いているイメージやテンプレートや既成概念の輪郭をそのまま忠実になぞったようなこの一編が、今新たに新作SSとして書かれる理由も、新作SSとして私たちが読まねばならぬ理由も、私にはどうしても理解ができませんが、なんかどっかで見たような文章ですね、これ。しかし「最近若い世代に人気の曲であり、僕らと偶然にも同じ名前を持つ――Little Busters!-Jumper Ver-」には正直いい意味で笑いました。「偶然にも」とか物凄い偶然です。この発想はなかった。
 さて特に申し上げることはありません。私が個別具体的に指摘しうる技術的不足の更に以前の、本当に基礎的な領域においてこの一編は駄目さを発揮しているのだと思うからです。そして別にフォローでもなんでもなく本心から言っておけば、それは基礎的であるが故におそらくは克服することがさして難しくはない駄目さです。なんというかまあ、頑張ってください。



「熱闘・草野球」

 短すぎ。もうちょっと頑張れ。



「そーろんぐ・ぐっどばい」

 実にきめの細かい叙述で、読んでる途中は傑作っぽかったんですが、最後の辺りでなぜだかちょっと追えなくなりました。
 この一編を特徴付けるのは、一人称「私」を主語に用いる箇所の少なさです(とさしあたり言っておきます)。「風紀委員長さんに診断書を渡しに行くところだった。」という冒頭の一文にそれは既に現れています。引き合いに出して大変申し訳ないですが、一つ後の「左目で見据えるもの」の冒頭「今日も私は一人、何をするでもなくただぼんやりと中庭のベンチに座っていた。」と比較すれば、「そーろんぐ・ぐっどばい」の繊細さは明らかでしょう。そしてこのことは必然的に、小説における一人称話者「私」の希薄化という現象を引き起こします――このクドは端的に言って、自らのことをあまり語らず、自分の見たもの、聞いたもの、感じたもの、といった自らの外側に存在しているものをこそむしろ多く語るのです。一人称小説でありながら、一人称という殻の内側に沈殿するのではなく(勿論それはそれで悪いものではありません)、軽やかに話者の意識が外界へと転がり出て行く点にこの一編の叙述の最大級の魅力を認めるのだとすれば、急速にクド=「私」の思い悩みそれ自体が前景化し、問題化されていき、そのことの必然的な帰結として「私」を主語とする一文が目立ちだす後半部は、凡庸な一人称へと落ち込んでしまっているという意味において前半と比較して退化していると思うわけです。
 そして最後の、不自然に圧縮された記述です。繰り返しますがこの一編の叙述は、一人称の内省に沈み込まず、めまぐるしく動く外界を軽やかに捉えていくものでした。したがってそれは、語り手による回想が挟み込まれたり、突如として語り手が長々と思い悩んだり、語り手が長大な説明を始めたりすることなく、現実の時間進行をごく「自然」に捉えるものであった、と言うことができるでしょう(「ストレルカ。/会ったときは手のひらに乗るくらい小さかったのに、私の知らないうちに、私より先に大人になってしまった。」以下の部分が例外ですが、ここは実に滑らかな処理に成功していると思います。この長い説明文に伴う叙述上の時間進行にあわせて、裏側ではストレルカを獣医のところから引き取ってくるという現実的な時間も同時に進行しているからです)。そしてだからこそ、「それから、テヴアでストレルカのことを思い出すことはなかった。」や「日本に帰る決心がついたときにはあれから3年が経っていた。」といった「不自然」な時間の流れ方を突如としてし始める箇所に、私は対応できませんでした。この叙述の質の唐突な変化は、端的に駄目だと思うのですが、いかがか。
 どうしてこういう叙述を結末に用意したのか、作者のひとに訊いてみたい感じがします。



「左目で見据えるもの」

 普通に読めはするのです。葉留佳と古式という組み合わせも珍しくてまあ惹き込まれます。しかしなんと言いましょうか、組み合わせの珍しさ以上の生彩はなかったです。普通に始まって、普通に進行し、普通に終わるシリアス、という感じです。そして、ということはつまり、大方のシリアスに共通する弱点を持っています。以前も書きましたがそれは、Aと書けばAと読者に伝わる、という素朴すぎる考えです。「いつしか私は、彼女との会話に楽しさを見出していた。無彩色だと感じていた日々の中に彩りを見つけていた。」とだけ書かれても、内容的には「彩り」を見付けたということになるのかもしれませんが、小説そのものは少しも「彩り」を表現しえてはいません。「彩り」と書くだけでは、小説的表現は決定的に生起しないのです。平凡な言い方になりますが、説明ではなく描写をしてください。
 説明に終始するばかりで少しも表現が立ち上がってこないのは冒頭に強く指摘できることです。「……私も、以前はあちら側の人間だった。」から「こんな毎日が、いつまでも続くような気がしていた。」までの長々とした説明文の酷さと言ったら。そもそも原作で了解されており、SS中に一言も書いておらずともなんの問題もない内容です。失明した古式が部活の声を聞いて、ちょっと鬱っぽい表情になって、溜息をつく――これで十分じゃないか、あからさまに書くより読者は何倍も古式の心中を察せるじゃないか、とは強く思います。加えて、「それだけに遠くグラウンドの方から聞こえてくる喧騒がやけに大きく聞こえた。恐らく、体育系の部活に打ち込む人たちの声だろう。」とまずは自然な描写のできていた箇所から、唐突に「……私も、以前はあちら側の人間だった。」と説明的に語りだすのはいかにも不自然ではないでしょうか。その不自然さを「……」で糊塗できるのだと考えているのなら、それは大いなる勘違いです。
 ここまで書いて思いましたが、文章が、悪い意味で説明的に圧縮されているのは、ひょっとしたら作者の資質の問題というよりは、容量的な問題なのかもしれません。結構上限ぎりぎりですし。だとしたら、これは葉留佳と古式双方に救いをもたらす話ですが、どちらか一方に絞った方が良かったんじゃないか、と言っておきます。このままでは「いつしか私は、彼女との会話に楽しさを見出していた。無彩色だと感じていた日々の中に彩りを見つけていた。」とか簡単に「彩り」を発見させられてしまう古式も、「「言うよ…… ううん、聞いて、欲しい……」/ そして、三枝さんはぽつぽつと語りだした。」とかあっさり過去語りさせられる葉留佳も、どちらもまるで救われていないからです。
 あ、「■■者」は良かったです。字面から立ちあがる異物感が物凄い。安易であるとは言えないこともないですが、効果的だったと思います。



「願いの叶うボール」

 ドラゴンボールで始めておきながら、死亡後鈴理樹のガチシリアスに着地しようとする無謀さにはちょっと拍手を送りたい気持ちではありますが、着地点は結構平凡だったのではないでしょうか。
 さて後半はどうでもいいとして前半のドラゴンボールパートですが、この面白さはどう考えても、わけのわからないことを言い出す鈴ではなく、それに突っ込みを入れる理樹の語りによって獲得されているものです。つまり「後悔した。話は、膨らみすぎて割れた風船の破片のように飛散しており、さっぱり解らない。僕はどうすればいいんでしょう。」なんていうわけがわからなすぎる一文は、笑える事物を如何にして書くか、という思考ではなしに、笑える事物を捉える語り手をどのように設定するか、というレベルにまで書き手の意識が及んでいなければ絶対に書けないのです。まあギャグには最早ありがちな手法になったとは言え、これは普通に上手いでしょう。
 とは言え全体としてはやはり、ボールからドラゴンボールを発想すること自体はまあいいのですが、その思いつき以上のものはこの一編にはやはり認められないということになってしまいます(思いつき以上、を後半のシリアスで獲得しようとしたのかもしれませんが――そしてそれは漫画と小説のリアリズムの質の違い、という部分にまで思考をめぐらせた時、リトバスの虚構世界/現実世界の対立への無言の示唆となっている点も含めて、決して無視できない重要な問題をはらんでいるとさえ言えるのですが――しかし平凡すぎて、考慮には値しないと言わざるをえません)。ちょっと酷い言い方をすれば、この一編はチャットで「ちょwwwwドラゴンボールかよwwwwww」と草生やされて、それで終わりでしょう。小説自体は事実上無視され、小説をネタにした草の生やし合いだけが面白い、というニコ動的事態(動画はつまんねーけどコメントは面白い、とか)に陥るのは、小説にとって明らかに敗北です。



「銀球」

 読まないのが吉らしいので読みません。
 

第16回リトバス草SS大会フライング感想(1)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 8月30日(土)13時29分16秒
編集済
   懲りずにフライング感想です。エクスタシーもやっていないというのに無謀なことです。
 前回ほどには長々と書きませんし、辛口にも書かないつもりである、とは最初に言っておきたいと思います。



「はるか遠くに転がっていくボールを追いかける犬のように」

 最後の一文とタイトルが連動する仕掛けは普通に上手くてなるほどと思いました。さてしかしながらこの敬語一人称には多大な問題があると言わざるをえません。端的に言って不自然だからです。クド敬語一人称というのは結構鬼門であるらしく、これまでの草SSの歴史でも何人か挑戦しては討ち死にしている筈です。
 敬語とは何か。
 敬語を用いるシチュエーションは普通限定されています。それは一般に、対話の相手が目上の時です。或いはたとえ同格ないし目下の相手であっても、敬語を用いるべきとされている場であったり、敬語を用いるべきだと判断された対話相手であったりする場合には、敬語が用いられるでしょう。いずれにせよここではっきりと言えるのは、敬語とは、対話する相手との関係を発話者が推し量り、判断し、その上で用いられる言葉である、ということです。それゆえ敬語一人称で書かれた小説は「語り手」の他に、「聞き手」の存在、および、「語り手」と「聞き手」の関係、を強烈に暗示します。「語り手」がいて、「聞き手」がいて、「語り手」は「聞き手」との関係を推し量りながら、言葉を選んで発話していく――敬語はこの場合、極めて「話し言葉」に近い、と言うべきでしょう。
 ところで、一人称の小説の地の文は「語り手」による「話し言葉」でしょうか。違います。何故なら私たちは朝起きた時、唐突に「ふと目が覚めた。/カーテン越しの淡い光に気づいた僕は、枕もとの携帯電話を開いて時刻を確認する。五時三十四分。布団に入ったのは確か一時も過ぎた頃だったか。思い出すと、途端に眠気が強くなった。」などと自らの一挙手一投足を口に出して細かく描写し出したりはしないからです。んなことし出したら病院に行った方がいいです。したがって一人称の地の文とは、自然な「話し言葉」とは程遠い、不自然な文学的構築物だ、ということになります。
「話し言葉」的な言語である敬語で、まったく「話し言葉」的ではない地の文を書くこと。敬語の性質への意識を完璧に欠落させたこの振る舞いが、この一編の強い不自然さの理由です。作者はおそらく、常体(だ・である)と形体(です・ます)の差異を無視し、普通常体で書かれるだろう地の文の語尾を素朴に形体に置き換えるという、実に単純な書き方をしてしまっているのです。その結果がこれです――「2学期が始まって何日かしたある日の昼休み。家庭科部の部室で昼食を取ろうとしているところでリキに会いました。」クドよ、お前はそれを誰に向かって話しかけているのか。「いや、さっきまで同じ教室で勉強していましたから今日初めて会ったわけではないのですが。」いやだからお前は誰に向かって弁解してるのか。
 とここまではこの一編の短所ばかりを強調してきました。何故ならそれが圧倒的に目立つからなのですが、やはり長所も述べておくべきでしょう。全然「話し言葉」でない場所で使われるから「話し言葉」的な「敬語」が不自然になるのであって、「話し言葉」的な場所で用いればそれは全然不自然ではないわけです(故に全編を「話し言葉」的言語で構成するという舞城的戦略をとれば敬語SSは成功しえます――草SSではゆのつさんが用いる手法です)。この作品で言うならそれは冒頭です。「私がそれに気づいたのはいつだったでしょうか。」から「歯車としての役割と終えた私は、やがて燃やされてこの地に還るのでしょう。」は、クドの行動や思考を「地の文」的に「描写」しているのではなく、むしろクドの内心をクドが自ら話している、内面描写のような印象を受けます。それゆえ敬語が不自然にならず、むしろ生かされています。それに加えて「だから、リキ。私の好きな人。あなただけはまばゆい太陽の下へ帰ってください。」では、明確な「聞き手」を得、その「聞き手」へのみに言葉が集中することによって、敬語に高い強度が生まれています。ここは大変上手いと思います。



「目の前にある、やみ。」

 ちょっとスタイル変わりましたか。以前は全編が韻文で構成されているような感じでしたが、今回は定期的に韻文(厳密に韻文と言いうるかは判りませんが韻文ということにしておきましょう)を挟みつつも、小説全体としては散文になっている。さて読んでいてまず感じるのはその、定期的、というところでした。一定のペースで一定の量の韻文が挿入されるので、非常に機械的な感じを受けます。しかも韻文と散文が完全に切り離されていて上手く混ざり合っておらず、切り離されていることに意味があるとも思えません。いや、韻文を単独で見ると結構いいんですが。

 そこは、夜の道。
 続いてゆくのは、電灯の光。
 そして、電信柱と、電線。

 ここなんか、幻想ちっくな部分に電気という人工的なモチーフを入れてくる辺り個人的に好きすぎる。しかしそれが上手く散文の中で生きているかと言えば上述のとおりそんなことはないわけです。
 というわけでここでの問題は、韻文的な表現を如何にして散文に呼び込むか、という点に尽きると思います。
 つまり、この硬質な韻文が、もっと有機的に散文の中に溶け込んで、渾然一体となっているようなSSを読みたいなと思うのです。
 それをどう実現すべきかという部分については全然思い浮かびませんが、一つ言えるのは、本当に強靭な韻文的表現を小説に導入した場合、小説自体がその構造を変質させてしまうと言うか、小説が収まりの良い形になることは到底ありえないだろうと言うことです。その意味で今回の一編は、韻文を機械的に処理することによって散文をそれらしい形に成形しようと努めた、ある種の保身の産物だったのだろうとは思います。そんなところで身を守らなくていいのでもっと弾けてください。



「誰にもみとられなかった白」

 このシチュエーションでは「想いを伝える約束だけを残して逝ってしまうなんて。」とかいう以前に、もしあそこで恭介のことを引き止めていたら、という後悔の方が先立つのではないでしょうか。まずはそこに内容的な不自然さを覚えました。
 しかし比較的よくできた短編だと思います。「私の視線の先には白球、ボロボロになった野球のボール。渡り廊下から少し離れた場所に打ち捨てられて汚れた白。」――渡り廊下の片隅に落ちた白球、それを一人で一心に見詰める少女、という構図を最初に持ち出すことにより、一人称の語り手がたった一人でたった一つの事物をじっと見るという極めてスタティックなスタート地点をこの一編は獲得します。少女とボール以外のあらゆる事物を小説の世界から排除することで、極めて純度の高い語りが実現されると言うわけです。その静謐なスタート地点から始まり、最終的に「私はお腹の底から声を絞り出して、力一杯にボールを雨空へ投げ飛ばした。どうか天の果てにいるだろう彼らにこの白球が届きますようにと。」とボールを投げ飛ばすことによって、小説の記述をはるかに上昇させること。それによるカタルシス=浄化。極めて単純な技法ですが、単純ゆえに成功すれば効果は非常に高いです。
 狙いはまったくぶれていません。となれば問題は、それをどれだけ洗練されたものに仕上げることができるかということだけです。そしてそのためには、まだまだやることがたくさんあるのではないか、という印象はあります。回想の入り方は上手いですが、説明的な地の文をなんとかするとか、不必要な台詞を削るとか、語尾を統一してみるとか、そういう地味な作業によってもっと凝縮の度合いが高まる気がします。
 ところで最も注目すべきはオリキャラなのかもしれないと思った。

「やっぱり、相手の事も理解しないと!」
 テンパったあげくにそんな突拍子もない事に考えが至ったせいで、私は一回だけリトルバスターズの野球の練習に参加した事があった。

 これは可愛すぎるだろwwwwwwww



「独り言」

「「こまりちゃんなんかいなくたって寂しくない!」/「理樹となんか一緒じゃなくても平気だっ!」/[……]」の幼稚な羅列、仰々しすぎる説明文、ささみ死亡の超ご都合主義展開、死に神、と全体的に駄目な印象ですが、これらがすべて作中作として処理されている点が読者にとっては非常に厄介です。作中作の駄目さはすべて、ありがちなテンプレ展開のテンプレぶりの表現として、批評的に描かれていると見なさざるをえないからです。しかも作中作の感想を言い合う理樹たちのその会話が、そこはかとなく草SSのチャットを思い出さざるをえない感じで(笑)、ということは恭介が寝ていたのは寝オチか!やったねFoolisさん!みたいな意味不明解釈しか最早私の脳みそは出力しません。
 ともあれこの一編がSSそれ自体とそのSSが評価される場を描き出したメタフィクションであり、そのことである種の批評性を持ちえているのだとして、だからどうしたのだろうとは言えてしまうSSであると正直思います。リトバスそのものを含めてこの世にはメタフィクションなんて山のように存在しているわけで、その中にあって、「登場人物が作中作に感想言い合うSS書いてみたら面白くね?」みたいな思い付きを越えるものでは全然ないこの一編は、さしたる特権性も持たない平凡なSSであると言わざるをえないのではないかというわけです。
 そういえば、

「あたしが投げたら、投げ返してくれるのか…?」
「当たり前ですわ」

 ここは好きでした。この前後は相変わらず仰々しすぎる説明で駄目なんですが(「これが――会話だ。」はないと思うなあ)、ここは本来全然成立していない会話がなぜか成立してしまっている一瞬の感動を切り取っていていいと思います。



「八月三十一日。夏休みの終わり」

 わけがわからない、という以上の感想がいまいち思い浮かびません。
 おそらくは叙述トリック。キャッチボールをしている二人――理希と凛――は双方女で姉妹で、恭介と小毬の娘? 「次」ってなんでしょう。「来年」? そもそもどうして凛がこんな不機嫌なのか説明ない気がします。諸々が謎すぎるけれど個人的に一番気になるのは烏と蜻蛉で、これはたぶん何かの象徴的な連関をなしているのだと思うのですが考えてみてもよくわからないし、烏といえばAIRだよねーとか明後日の方向へさえ思考が飛びかけます。思わせぶりに配置しただけで意味はないとかだったら泣きます。
 叙述トリックを成立させるためでしょうが、視点が三人称神視点です。これを機に銘記しておきますが、神視点は使うもんじゃありません。作者があまりにも自由に何を語って何を語らないでいるかを取捨選択できるので(だからこそ叙述トリックにあたって使う気になったのでしょうが)、よほど意識的に用いない限り退屈な文章しか生み出せないからです。まあそれを意識した上で利用するのなら勿論全然構わないのですが、この一編はその意識を欠落させた結果、普通に面白くなくなってしまった神視点SSの典型だと思います。叙述トリックが成功していれば埋め合わせができたのですが成功してないので文章のつまらなさばかりが目立ちます。
 トリックは意味不明、隠喩は機能していない、テキストは退屈――この惨状の中、一体何を読めとおっしゃるのか。
 変なトリックなんかに頼らないで普通のSSを書こうとすれば、結構面白いものが書けそうな文章力のある作者なので、なんだか余計に文句を言い募りたくもなるというものです。



「ぼくのいやなこと」

 これはちょっと情報量が多すぎやしませんか。現実的な遠近法に従えば、この一編は野球部部長と恭介がちょっと立ち話をする極めて短時間の話ですが、にもかかわらず野球部と元部長の過去に頻繁に言及するため極めて長大な虚構上の時間を有しており、加えて語り手も頻繁に物思いにふけってはソフトボール部の話題とかに話を飛ばすので、ちょっと話をするだけの舞台設定に対して情報量が大変多くなっています。この齟齬が看過しがたいレベルになっていると思います。
 前回のフライング感想と同じことを書かなければなりません。私は前回「語りとはすればするほど対象の輪郭を正確に描き出すことが可能になるかと言えばそんなことはまるでなく、[……]逐一説明をするという行為そのものがその長さによって現実世界には存在しない時間的停滞を作中に生じさせてしまう」と書きましたが、この一編においてもまた、そのような物思いや過去の回想を頻繁におこなうことが、語り手たる元部長が如何なる人間かの理解を助ける方向へは向かわずに、まさにそのような情報を書き込む文章の驚くべき長さと頻繁さによって、元部長の言動を撹乱してしまうのです。たとえば「続けねぇよ。もう1年もやってないし、どっかの誰かと違ってもう就職先も決まってる。それに、」と「それに……俺は嫌いなんだよ、野球は」という内容的に連続した二つの台詞の間は、現実的にはどう考えても長くて数秒でしょうが、この一編はそこに、行開けを伴う回想シーンを含めた、二十行近くの文章を書き込んでしまいます。これはあからさまに不自然ではないでしょうか。
 何もかもを逐一詳しく説明すればそれで万事問題なしであるとするこの態度は、はっきりと言ってしまえば極めて安易なものです。
 しかし幸いにも、ととりあえずは言っておきますが、作者がこのことに完璧に無自覚なままこの作品を書いたということはなさそうです。何故なら、一人称の語り手に頻繁に長大な説明をさせてはそのことによって小説内の時間を無残に寸断し、小説の完成度を恐ろしい勢いで下げていく多くの作者と違って、「ぼくのいやなこと」の作者は、一人称が地の文に登場しない一人称、とでも言うべき些か特殊な人称を採用しているからです。読者は、一人称であることをあまり意識せずにこの一編を読み進めるばかりか、一人称であるならば地の文では恭介のことを「棗」と書かなければならない筈のところを平然と「恭介」と書くことに象徴される、三人称的な文章をさえ読むことになるのです。一人称であることの特徴を削ぎ落とした結果、限りなく平明で透明になったこの一人称は、一人称の語り手が長大な解説をしたり、会話の最中に長々と回想をしたりする不自然さを覆い隠します。私が指摘した上記の情報量の問題があるにもかかわらず、さらさらと読もうと思えば読めないこともないのはこれが理由です。が、この特殊な一人称が中途半端に情報量の問題を隠蔽するが故に、その問題が見過ごされ、改善されないまま残って小説の完成度が落ちているわけなので、これは全然良いことではありません。
 ていうか一人称小説から一人称を消すなんていう高度なことができるんだからもう少し頑張ってくださいというのが超本音です。



「生き抜いたその先に」

 賛否両論わかれそうなオチだなあ。個人的にはかなり好きです。この手の落とし方は滑ることが多いけれどこれは普通に笑いました。
 さてエクスタシーやってない私がこれの感想書いていいのか実に謎であると言わざるをえませんが書きますと、見栄えあんまりよくなくて地雷の臭いが読む前はしたのですが、読んでみると結構面白かったです。
 おそらくこの一編は容量配分をミスしています。「あの幸せな時間を手に入れるためなら,苦しい記憶だってなんだって,私は糧にして生き抜いてみせる.」と壮大な決意を書き記し、さあ壮絶なサバイバルが始まるぞ、と思ったら話の半分も行かないうちに「救助隊がすぐそばまで来ていた」という理由で生還してしまうあっけなさは、もう少しなんとかならないのかというわけです。これに拍車をかけているのが文章です。「躯には容赦なく大粒の質量を持った水滴が叩きつけられ」、「手足には泥が,体からは血が」流れているような、ごく普通の意味での「リアル」なシーンを書くのに、描写なし、登場人物の内言のみで構成された文章というのは些かつらい気がするわけです。もっと写実的な描写が要求されるでしょう。
 さて簡単に生還してしまったあっけなさは後半にも尾を引いています。あまりにも簡単な生還の様子が冒頭に書き込まれてしまったが故に、その後の語り手の言葉はどうしても、そのあまりの簡単さを背景とした空疎なものとして響かざるをえないからです。このSSは、救助されるまでのシーンを丸々削って読者の想像に任せるか、救助隊全然来なくて超さ迷い歩いて食い物なくて飢え死にしかけてとかそういう過酷なサバイバルを十五キロバイトくらい使って徹底的に書くか、の二択だったと思います。
 しかしここまで書いて、ああ俺沙耶シナリオやってないからこういうこと思うのかなーとかふと思いました。どんなキャラなのかは知ってるんですけど。



「それは白く柔らかくボールのようで」

 ノベルゲームにループものの傑作が多いのは言うまでもなくループがノベルゲームの制度そのものだからです。しかし小説となるとそうもいかないわけで、したがって小説でループを描くのはちょっと難しい作業です。これは成功している方だと思います。
 途中に入る○とか■とかが何を示しているのかはっきりしませんが、鈴以外のヒロインの現在の状態を示しているのだと解釈すれば意味は一応通ります。○は現実世界にいるキャラクター。四角形は虚構世界にいる状態を指しており、◇は普通に虚構世界にいる。■は理樹がシナリオを通ったけれど、NPCにはなっていない――つまり小毬。◆は理樹がシナリオを通ったキャラクターで、既にNPC。二つの「◇◇◇◇◇」の段階ではまだみんな虚構世界にいます。したがってちゃんと全員登場します。「■◇◇◆◇」では葉留佳と姉御の会話からクドがまだ虚構世界にいることがわかります。葉留佳と姉御には最後までいてもらないとお話になりませんので、この時点で抜けているのは消去法で美魚です(どうでもいいですが最初の「◇◇◇◇◇」ではクドのルームメイトが佳奈多だったのがこの章では葉留佳になっておりループしていることがわかります)。「■◆◇◆◇」で残っているのは葉留佳と姉御。しばしば姉御に関する記述が過去形で語られる「■◆◇◆◆」では葉留佳しか残っていません。そして最後に再び「○○○○○」が来てめでたしめでたし。各印に該当するキャラクターは順番に、小毬・クド・葉留佳・美魚・姉御、となりますか。
 合っているのかもわからない解読に行を費やしすぎましたが、まあこれ普通にいい話だし上手いし、私が特に文句を付けるところもない気がします。上に書いたように小説でループをやるというのは難しいことなのだけれど、文章をコピペすることでループ性を確保するというのはまあ常道なんだろうなあと思いました。姉御の「……私は楽しかったよ」という台詞といい、「言いそびれた言葉はしまっておこう。」という結びといい、大変素晴らしいと思います。



「一日だけの仲間入り」

 読者を引き込む冒頭、読みやすい丁寧な文章、適度にギャグが入って読んでいて楽しいストーリー、と上手いながら無難にもほどがあるように見えるこの一編をその無難さから解放するのは、一読して明らかなように後半に見られる大胆な時間処理の仕方です。ここまであっさりとやられると許せてくるというのが正直なところですが、もう少し工夫は欲しかったと思います。この一編にあって回想を陳腐化しているのは「口には出さずに、先ほどの出来事を自分の胸の中だけで反芻する。」という回想に入る直前の文章であると思います。回想シーンを有するSSに頻繁に見られるこの種の文章は、必要ないばかりかテクストの魅力を大きく損なうと言っていいでしょう。
 何故必要ないか。
 作者が描き出そうとしている「現実的」な場面において、確かに恭介はそこで「先ほどの出来事を」「胸の中」で「反芻」することによって、「「すいません」/「ん? 俺か?」」以下の回想シーンを「思い出す」という形で導き出しているのでしょう。しかしながらそれは小説というメディアの特性を生かしていないとしか言えません。なんとなれば小説にあっては、たとえ「現実的」には関係のない二つの事物であってさえ、隣り合わせて描写すれば、読者が小説を読むという位相において両者は隠喩的ネットワークを結びうるからです。試しに「恭介は答えない。口には出さずに、先ほどの出来事を自分の胸の中だけで反芻する。」という一行をないものとして読んでみましょう。すると回想シーンは、恭介が「思い出す」わけでもない――つまり「現実的」にはどのように回想シーンが導入されているのかはまったくわからない――ということになりますが、にもかかわらず、それまでのサッカーのシーンを読み、そこから連続して回想シーンを読もうとする読者の知覚にとっては、回想、或いは過去の一場面として了解されます。「現実的」には存在しない場面は、しかし小説を現在進行形で読んでいる読者の知覚において鮮やかに顕現するわけです。
 これが、些か大げさに言うならば、小説が「現実的」な遠近法から離れ、小説を読むことの上にしか存在しない独自の生彩を小説そのものが獲得しかかる一瞬です。それを「口には出さずに、先ほどの出来事を自分の胸の中だけで反芻する。」と「現実的」な遠近法にあっさり従うことによって糊塗し、なかったことにしてしまうのは、私にはちょっと怠惰にしか見えません。
 ちなみにこれ「後半戦が始まる。」以後全部いらなかったんじゃないかとかふと思いました(笑)。いや回想に入ったまま戻ってこない方が、回想の内容が鮮烈になった気がするわけです。駄目かなあ。
 

(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 8月19日(火)15時42分16秒
   知り合いという知り合いがリトバスエクスタシーについての考察をブログやサイトでおこなっているのを興味深く眺めています。思えば私が鍵SSの世界に初めて足を踏み入れた時にも、KanonやらAIRやらの考察をKeyの公式掲示板などでみんな物凄い勢いでやっていて、なんなんだこの熱気はと思ったものです。
 まあエクスタシーやってない以前に買ってすらいないので(尤もそのうちやる予定です――エクスタシーをと言うよりは沙耶シナリオを)、個々の考察の内容には意見も文句も何一つありませんし、そもそも私は考察にはあまり興味がなくてやったこともないのですが、エロゲーにおいて感想でも批評でもない、「考察」という行為がどうしてここまで広く普及しているのかについては、結構考えてみたい気がしています。メタ考察(笑)。まあやりませんけど。
 

以上は、新着順11番目から20番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  |  《前のページ |  次のページ》 
/15 


[PR]