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(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月15日(火)22時10分42秒
   ブログなどで拙文に言及してくださった方々ありがとうございます。さぞかしリンク張りにくかったでしょうがまあこういう掲示板なので仕方ない(笑)。誰へ向けているのかもよくわからない呟きを断片的に投稿していくには結構いい環境なのですが、まとまった文章を扱うにはちょっと不便なようです。


 SS書く暇がない……
 


じゃあ消します。

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月12日(土)16時15分30秒
   嘘ですけど。

 URLに同じ文字が連続して並んでいるのが悪いのかな、とかちょっと思いましたが確証は全然ありません。ブログに張っておきます。
 件の文章、タイトルに論とかいう文字入れてしまったのが、そんな大層な文章じゃねーよなーとまたも後悔の対象ですが、最中さん自身のSSが二つ入っている上にファンタジックまで並んでいてはこれはもう最中さんホイホイと言うほかありません。後で読んでいただければ幸いです。エクスタシー世代に優しくとか無理です(笑)。

 Kanonに対してあのような考え方をする最中さんがリトバスについてどう考えるのか、というのは実は密かに楽しみにしています。エクスタシー発売したら早くやってください(笑)。
 
お得なプロバイダーとくとくBB

消さないで。

 投稿者:最中  投稿日:2008年 7月12日(土)00時47分42秒
  すみません、完全に放置していて何が悪いのかよく分かりません…>蹴られる
もしアレならブログにでも…。とゆうかわざわざ貼るのもアレなのでご自由に。

めためた面白そうなのですが、ネタバレが怖くて読めません。すみません。
エクスタシー世代にやさしくしてよ。笑

でも、またほんの少しリトバスが楽しみになってきました。

しかし、取り上げられてるSSが……。
 

(無題)

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月11日(金)03時27分53秒
編集済
   昨日から書いていた無駄に長大な文章をうpします。
 誰も読まない長さです。
 これのせいで草SS書く気力を失いました。
 最中さんのサイトへリンク張ると蹴られるのはなぜだろう。

 追記。消したくなってきた……。消さないけど。
 
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リトバス的SS論(の素描)1

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月11日(金)03時25分29秒
編集済
  序文

 題名に「的」の一字が入っていることからわかるように、これはリトバスではないゲームのリトバス的なSSを扱う文章であって、リトバスSSを扱う文章ではありません。しかしリトバスの名が入っていることからわかるように、これはリトバスのプレイヤー或いはリトバスSSの読み手、書き手へと向けて書かれる文章です。
 リトバスというゲームは、Key自身の過去の作品を含めた先行作品をかなり意識して作られたゲームであると言えます。したがって、今となってはリトバス的と表現せざるをえない想像力が露骨なまでに表面化しているSSは、過去に結構な度合いで存在していました。これは私たちがリトバスについて考えたり、リトバスSSを書いたりする際に生かすべき蓄積でしょう。しかし、リトバスから新たに入ってきたひとにはその蓄積が見えにくいのかもしれない、と考える機会が最近ありました。また私自身もそれらのSSを上手く整理できていません。この文章はそれらリトバス的SSの紹介と整理とを目的として書かれます。
 取り上げるSSは以下の通りです(作者五十音順)。

今と出会うために時計は時を刻む」(Kanon、阿倍碧郎
世界は終わり、或いは始まる。」(ONE、風見由大
ハル」(Kanon、風見由大)
13月になれば君に贈りたいものがあるんだ。」(Kanon、最中
deracine[デラシネ]: エンドロールの後で故郷喪失者の瞳に映るもの。」(ONE、最中)
永久にあなたと雨の中」(ONE、じぎーすたーだすと)
世界の果てという名の雑貨屋」(Kanon、なげ
フリップフロップ」(ONE、七瀬友紀
子供ノ世界ノ速度」(ONE、広瀬凌
けものたちのうた」(ONE、まーきー
君のファンタジック…なんてねっ」(Kanon、夜羽

 ONEとKanonしかない上にすべてこんぺ作であるという辺りに私の読み手としての視野の狭さが表れていますが許してください。
 なお、上記のSS、SSの原作、リトバスのネタバレは予告なくおこないます。ネタバレなしで読んだほうが圧倒的にいいSSも幾つか混じっていますのでご注意ください。
 

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月11日(金)03時24分21秒
編集済
  1――荒地における生

 リトバスは過去のKeyの作品とは決定的に別種の結論へといたる物語です。その切断がもたらされた瞬間は具体的に指摘できます。「いい/よくない」の選択肢においてプレイヤーが「よくない」を選んだ瞬間がそれです。これまでのKey作品であればこの選択肢は存在せず、プレイヤーは抵抗などまったくできずに外に放り出されていたはずです。
 言い換えれば、「いい」を選んだその後の鈴と理樹を描くSSは、過去のKeyのSSへと近接していきます。この観点から注目されるべきは、「13月になれば君に贈りたいものがあるんだ。」(Kanon、最中)、「世界の果てという名の雑貨屋」(Kanon、なげ)の二作であると思われます。別の作品を同じものとして取り扱うという態度は慎重に自重すべきものですが、それでもそうした作業をしてしまえば、この二つは、過去に「奇蹟」が起きて救われた者がいた、救われなかった者もいた、そしてもう二度と「奇蹟」は起こりえない、そんな場所を舞台に描かれます。「奇蹟」後の残酷な「現実」を生きるキャラクターたちの物語、と簡単に言い換えてしまっても構わないかもしれません。そしてこれは当然「虚構世界」後を生きる鈴と理樹の相似形でもあります。

「その女の子と男の子は、その後、晴れて、本当の恋人になりました。
 ――そして、幸せに暮らしました?
 ――おとぎ話なら、そうなるんでしょうけどね。でも、残念ですけど、これは現実の話なんです。だから、そんなにうまくはいきませんでした。」(「世界の果てという名の雑貨屋」)

「おとぎ話」と「現実」の対比。「奇蹟」という前者から踏み出して、「現実」という後者に踏み入ってしまった人びとの物語。優れてリトバス的と言っていい想像力がここには働いています。もう一方の作品からも引用します。

「奇跡とか、神様とか、掌の上の運命線とか、信じていたものなんて、とっくに壊れちまったんだ。

 結局、俺達はさ、自分の足で歩くしかないんだから。」(「13月になれば君に贈りたいものがあるんだ。」)

「奇跡とか、神様とか、掌の上の運命線とか、信じていたもの」、リトバスで言うところの虚構世界が崩れ落ち、仲間をすべて失った後の鈴と理樹は、まさしく「自分の足で歩くしかない」でしょう。そして鈴と理樹の二人は「自分の足で歩」こうとするとき、こう感じるでしょう。

「この世界はひどいんだ。
 ひどい、世界なんだ。」(同上)

 とは言え、二人が次のような思いへ至るのも無理なことではないはずです。

「この世界も捨てたもんじゃない。
 まだ、ここで生きてやろうか、なんて偉そうに思った。」(同上)

 この結論は、「女の子と男の子」が「そんなにうまくはい」かなかった「世界の果てという名の雑貨屋」よりは希望的、と言うべきでしょう。そして僅かばかりの希望だけはこうして繋ぎえた「13月になれば君に贈りたいものがあるんだ。」のほうが、二人生き残った鈴と理樹の姿に近いのだろうと私には思われます。思いたいだけかもしれません。
 というわけで、ここではリトバスとほぼ同じ枠組みを持つSSを提示してみました。これ以降はリトバスに対して様々な形で批評的に介入するSSを取り扱います。
 
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 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月11日(金)03時23分20秒
  2――虚構からの逃走という倫理

 2で扱われるSSは、「虚構」を出て「現実」で生きる人間たちを描くという意味では1と同じです。しかし、1がKanonで2がONE、という原作の違いが生み出す差異か、その意味するところは大きく違います。
 浩平がえいえんを脱出する話は恐らく無数にあるでしょう。その発想自体がリトバス的ですが、リトバスと決定的に違うのは、ONEにおいては、なんとか脱出したいものとしてえいえんが最初から定義されていることです。対するリトバスの虚構世界は、できれば脱出したくないもの、内側にとどまっていたいものとして定義されています。故にリトバスには、どうして虚構世界から脱出しなければならないのか、という問いが発生しえます――と言おうか、発生しなければなりませんでした。実際には回避されています。ここにリトバスの弱点の一つが存在すると私は考えます。
 リトバスで回避されたその問いを発し、明確に答えたONE SS――つまり1のように「おとぎ話」から「現実」へ放り出された人間ではなく、「おとぎ話」と「現実」とを差し出されて自らの意思で後者を選び取る人間を描いたSSとして、挙げられるのはまず「永久にあなたと雨の中」(ONE、じぎーすたーだすと)だと思います。失明という過酷な「現実」をなかったことにできる「おとぎ話」のような機会に遭遇した語り手は、しかしそれを思いとどまり、次のように語ります。

「私は、変えたくないのだ。

 そう思った時、私はやっと全てを受け入れる事ができた気がした。……そりゃあ、ちょっとは残念に思うところもあるけれど。
 でも、絶対になくせないものが、私にはあるのだ。」(「永久にあなたと雨の中」)

「現実」を改変したら失われるだろう「絶対になくせないもの」を守るために、語り手は「現実」を改変するという「おとぎ話」を拒み、自分が今いる「現実」を生きることを選択します。最後に、こうも言います。

「そう、確かに私は変えられたのだ
それはほんの少しの変化かもしれない
それでも私は、強くなれた
夢でも構わない
消えることなく心の中に残るものがあるのだから」(同上、原文では中央寄せ)

「それはほんの少しの変化かもしれない/それでも私は、強くなれた」とは、虚構世界を脱出した鈴と理樹を表現した文章としても通用するものです。二人が「夢でも構わない」と思うことはありそうにないですが、「消えることなく心の中に残るものがある」のは確かだと思います。そして何よりこのような言葉をなんの衒いもなく堂々と書き付けることのできた語り手は、「奇蹟」や「おとぎ話」や「虚構」といった存在を拒絶し、「現実」を選び取ることの根拠――リトバスが有耶無耶にして遂に描きえなかった「倫理」をはっきりと持っています。
 これと似たようなSS、とまでは言えませんが、「虚構」から明確な意志を持って脱出する人間を描いた作品として、「けものたちのうた」(ONE、まーきー)を挙げることができます。下手な解釈や引用を拒む強靭さを持った文章なので内容には立ち入らないことにしますが、ここに描かれるえいえん的な世界――リトバスにおける虚構世界が、恐ろしく美しい文章で描かれていることには注目してもいいと思います。「虚構」が「できれば脱出したくないもの、内側にとどまっていたいもの」であることが、内容のみならず語りの様態によっても保証されているというわけです。そうした二重の保証を引きちぎって扉を開く語り手の姿は、だからこそ感動的です。
 
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 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月11日(金)03時22分11秒
編集済
  2.5――故郷喪失の肯定

 余談に近くなりますが、1と2を掛け合わせたSSとして「deracine[デラシネ]: エンドロールの後で故郷喪失者の瞳に映るもの。」(ONE、最中)があります。

「あたしは、あなた達の何でいればいいのだろうか。あたしは本当に、あなた達の目に映っているだろうか。人の関係性を表す言葉の少なさに、二人が手にしたものの大きさに、あたしはただ立ち尽くす。置いていかれたみたい。あたし一人、遠い場所にいる。いつまでも三人でいられないなんて、ずっと前から気付いていた。あたしも、探さなくちゃいけない。自分だけのやり方で。あの場所に満たされた、永遠と同じ成分の何かを。」(「deracine[デラシネ]: エンドロールの後で故郷喪失者の瞳に映るもの。」)

「いつまでも三人でいられ」ず、「遠い場所にいる」この語り手は間違いなく1のようにして「おとぎ話」から放り出された人間です。しかし彼女はそこで「現実」を前に立ちすくむのではなく、それどころか「現実」を過酷なものとして捉えさえせず、自らの立場を2のように肯定し、「あたしも、探さなくちゃいけない。」と力強く言います。そしてそうした立ち位置を、解放感と希望に満ち溢れたやり方で次のように表現するのです。

「信号が青に変わる。
 あたしはもう、どこへでも行ける。」(同上)

 ここに、絶望的すぎる1と希望的すぎる2のバランスのよい折衷を見てしまうのは私だけでしょうか。尤もこの折衷はリトバスでは難しいでしょう。
 
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 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月11日(金)03時20分56秒
  3――虚構への逃走という倫理

 この章では、2とは正反対のSS――つまり、虚構と現実の二つを差し出され、虚構を選び取る人間たちを描いたSSを取り上げます。
 初めにこの一作を挙げます。「世界は終わり、或いは始まる。」(ONE、風見由大)。リトバスをやった後にこのSSを再読したときの衝撃は物凄かったと言わなければなりません。SS全体がリトバスへの極めてラディカルな反論として成立しているからです。
 さて「世界は終わり、或いは始まる。」は大体次のような世界観を持っています。一、核戦争で地球が滅亡。二、滅亡した地球に宇宙人がやって来て、回収した細胞片から人間を再生、それが浩平。三、地球滅亡前の浩平の生活を宇宙人が電脳空間においてシミュレート(=ゲーム本編)。ゲーム全体が誰かの手によって形作られた虚構世界である、という点でリトバスと同様の設定ですが、リトバスと決定的に違うのは、虚構世界を脱出して戻るべき現実世界は既に滅亡していることです。そしてSSの最後、浩平を甦らせた宇宙人が自分の星へと帰還する際、浩平は次のような道を選んだとその宇宙人は語ります。

「わたしは”こうへい”を彼の”帰りたい”場所に帰すことにした。
 彼が気に入っていた風の丘に、本来彼を母国に連れて行くために使うはずであった凍眠装置を設置し、彼に冷凍睡眠の措置を施す。併せて、わたしのサブ頭脳を取り外し、装置と繋ぐ。これには宇宙船のメインコンピュータで行なったシミュレートの結果をコピーしてある。
 オリジナルの”折原浩平”が、どのような人生を経て、戦争によりその最期を迎えたのかは分からない。
 ただ、シミュレートであれだけ”長森瑞佳”との絆を求めたのだ。おそらく、その過去でも彼女と幸せなひと時を過ごしていたのだろう。
 だから、わたしは”こうへい”をその繋がりの中に帰すことにした。シミュレートの結果の後の世界、彼らが本来育んだであろう季節へと。
 わたしは彼らの絆の、その先にあるものを知りたいと思った。
 ”こうへい”にはわたしたちの星へ来れば、庇護を受けて暮らせることも伝えてある。ここに残れば、やがては装置のバッテリーが無くなり、死を迎えることになることも。
 それでも彼は、地球に残ることを選んだ。どちらが幸せなのかは分からない。それは彼が決めることだ。」(「世界は終わり、或いは始まる。」)

 リトバスが極めて簡単に、虚構世界を「弱さ」や「幼さ」と結び付け、そこからの脱出と現実世界への帰還を「強さ」や「成長」と位置付けていたのに比べると、このSSは実に繊細であると言えます。滅亡した現実世界や「わたしたちの星」で生きることこそが「強さ」と「成長」の証であり、シミュレーションの虚構世界へと閉じ籠もる浩平の選択は「弱さ」と「幼さ」の所産なのだ、などと語ることは、ここではできようもありません。その二つの「どちらが幸せなのか」は「彼が決めること」だからです。
 ここにあるのは、虚構世界を引き受ける倫理、とでも言うべきものであるように私には思われます。現実世界の残酷さの中へ自らの身を投じたところで少しも幸せになれはしないとき、現実世界へ出よという根拠を欠いた単純な命令を拒絶し尽し、虚構世界でしか自分は生きていけないのだという事実をこの身に引き受ける倫理です。この選択の前で、安直に現実世界へと帰還する立場は、虚構世界を引き受け切れなかった「弱い」選択として裏返しに反倫理化されるでしょう。地球滅亡という極端な設定を導入したからこそ可能だったとは言え、リトバスと同様の枠組みを用いながら、斯くも鮮やかにリトバスを反転させる試みが過去に存在したことに、私たちはもっと驚いてもいいと思います。
 ここでもう一作、「子供ノ世界ノ速度」(ONE、広瀬凌)に言及します。白状してしまえば私はこのSSを評価していませんが、しかしそれはこのSSが拙いということを必ずしも意味しません。後一歩でディストピアに足を踏み入れてしまう、或いはもう既に踏み入れている、そのような余りにも異様なハッピーエンドに対して拒絶反応を引き起こしたのだと思います。

「「瑞佳。オレと一緒に、永遠に往かないか」」(「子供ノ世界ノ速度」)

 なんという直球な言葉か。そして本当に二人して「永遠」に行ってしまう。そのさまが如何にも幸せそうに語られる。これほどストレートな「虚構世界」の肯定はたぶんかつてないでしょう。
「子供ノ世界ノ速度」の是非を判断することはしません。本当に幸せとも、幸せの皮を被った地獄とも取りうるSSとして成立してしまっている、という事実そのものがここでは重要です。つまり「虚構世界を引き受ける倫理」が成立するか否かのぎりぎりの地点をこのSSは指し示しているわけです。その意味で、是非はともかくとしても触れておくべきSSではあるでしょう。
 さて、これまでの流れをリトバスに引き付けて要約すればこうなります。1、「虚構世界」から放り出されて「現実世界」を生きるSS。2、「虚構世界」と「現実世界」を差し出されて「現実世界」を選び取るSS。3、「虚構世界」と「現実世界」を差し出されて「虚構世界」を選び取るSS。ここまでは「虚構世界」と「現実世界」が明瞭にわかたれていることを前提としてきました。しかし以降の4と5では、「虚構世界」と「現実世界」の対立をそれぞれのやり方で無化するSSが取り扱われます。
 

 投稿者:晶広  投稿日:2008年 7月11日(金)03時19分56秒
編集済
  4――全員救済の想像力

今と出会うために時計は時を刻む」(Kanon、阿倍碧郎)、「君のファンタジック…なんてねっ」(Kanon、夜羽)。さながらKanonのリトバス的解決とでも呼ぶべき二作です。リトバスのトゥルーエンドで全員が救済されたように、この二作もまた最終的に全員の救済される様子が描かれます。「今と出会うために時計は時を刻む」は厳密には全員ではありませんが、全員救済という想像力の下に書かれていることは確かです。
 Kanonは元来ヒロイン五人のうちたった一人しか救えないゲームですから、全員を救済しようとすればなんらかの仕掛けが必要になります。そのためにタイムスリップというファンタジー的な意匠を作中に取り込んだのが「今と出会うために時計は時を刻む」です。全員救済のための手順を一つ一つ踏んでいるという点で実に丁寧に作られた作品です。この丁寧さはリトバスにはありません――いとも簡単に「よくない」が選ばれ、短時間のうちに全員が救出されるからです。そしてその意味において良くも悪くもリトバス的であると言えるが、「君のファンタジック…なんてねっ」です。
 簡単に要約できるSSでは到底ないのでSS自体を読んでいただきたいのですが、可能な限り説明をします。これは祐一が見せられている膨大な量の「夢」から始まるSSです。そしてその「夢」とは明らかに、これまで沢山の書き手によって書かれた無数のSSそのもののことです。或いはSSに限らず、Kanonから派生的に生み出された物語すべて、と言うべきかもしれません。そして作中の人物はその「夢=SS」の書き手に向かってこう言います。

「「ずっと見ていた『あなた』がいるのは、画面の向こう側かな? 現実? それとも虚構や、別の夢かもしれないね? だけどあなたは祐一じゃない」
 優しさに満ちた、小さな声。
「…夢は、終わるよ」」(「君のファンタジック…なんてねっ」)

「「あたしたちの物語は、あたしたちが作る。あなたが、あなたの物語を生きているみたいに」」(同上)

「夢は、終わる」。そして「あたしたちの物語は、あたしたちが作る」。こうして「夢=SS」との決別がなされ、Kanonの登場人物たちは自らの生を生き始めます。そしてその原動力は「夢=SS」の語り手たる私たち自身の願いによるものである、と「君のファンタジック…なんてねっ」は語ります。その結果、以下のようなことが実現します。

「――さあ、行こっ。みんなを助けようと思うなら、これから祐一はあちこち走り回らなきゃいけないんだからっ。ここは過去を振り返り、未来を探すための分岐点。おとぎ話の最初の一歩っ。矛盾? 不可能? そんなの知ったこっちゃないっ!
 忘れていたことは、全部思い出したよね?
 名雪には誰より先に真剣に謝るよーに。かかってくる真琴は、偶然通りかかるおばさんくさい娘…もとい、美汐に無理矢理押しつけて! でも、ちゃんと彼女の連絡先も聞いて後で引き取りにゴー!
 で、素知らぬ顔で出くわすあゆと一緒に、栞を巻き込んであちこちデート。多少無茶してもオッケーだからね。勢いで香里も捕まえちゃえ。なぁに、名雪が協力してくれれば楽勝楽勝っ。ありゃ一人で悩むからややこしいことになるの。病気だって治る。手段なんていくらでもある!
 佐祐理ともすぐに仲良くなれるよっ。佐祐理は祐一がいれば歩き出せるし、未来のあたしも一緒に引っ張り出してくれれば大丈夫! 天使の人形は知り合ったみんなに頼めば見つかる。うん、北川君はいいひとだねっ。
 あゆも目覚める。祐一が手を握ってあげれば、絶対に。
 ね、祐一。きっとうまくいくよ。あたしも手伝う。一人でどうにもなんなきゃ、二人でどうにかする! 足りなきゃ三人四人、いくらでもっ! だから、がんばろうよっ! みんなで幸せになろうっ!」(同上)

 この吃驚するほどのポジティブさと全能感はリトバスのそれとほぼ同じです。ゲームと小説という媒体の違いは無論ありますが、物語外の存在を召喚し、そのことによって複数の物語を束ねる一つの完全なるハッピーエンドを実現する、という構造も同じです。理樹に憑依したプレイヤーがキャラクターを全員救済するリトバス、二次創作にかかわる数多の人びとの願いがキャラクターを全員救済する「君のファンタジック…なんてねっ」、簡単にまとめてしまえばこうなります。
 Kanonは元々一人しか救われない物語なので、SSでこういったハッピーエンドを実現することは一つの達成であると言えるでしょう。あらゆるSSのあらゆる書き手の願いを一身に集めて、最後の最後にたった一度だけ実現された幸せ、と考えれば、このSSにはこの上ない価値が存在します。しかしリトバスはどうか。原作自体が「矛盾? 不可能? そんなの知ったこっちゃないっ!」「みんなで幸せになろうっ!」という感性を発揮して、余りにも簡単に全員を救済してしまうこと、そしてその救済を多くの書き手がSSによって追認してしまうことは、その救済自体を殆ど無価値なものとして扱うことになりはしないか。私自身の話になってしまって申し訳ありませんが、拙作「虚構世界理論」の書かれた理由の一端はここにあります。引用させてください。

「いずれ独りで死ぬべきである人間が最低限背負わなければならない孤独さえも消え失せ、理想的な世界を苦もなく生み出しそこでやすらかに生きていくことのできる、愛に満ち溢れた世の中。そんな壮大な楽園を前にして、僕は間違いなく立ち竦む。」(「虚構世界理論」)

「僕達は何者にでもなれるし、何をも愛することができる。したがって僕達は本当のところ、何者にもなれないし、何をも愛することができない。」(同上)

 リトバスと「君のファンタジック…なんてねっ」は確かに似ているでしょう。しかし「君のファンタジック…なんてねっ」の全員救済が原作をどうにかしようという強力な意志から生まれたものだったのに対し、リトバスの全員救済は殆ど苦もなく手に入るもの、あらかじめそこに存在しているものである、とは自覚しておくべきではないかと思います。言い方を換えれば、「君のファンタジック…なんてねっ」はKanonSSにとってある種のゴールだったけれど、リトバスSSにとってはあくまでスタートです。私たちはそこから、改めて何かを語り出さなければなりません。
 そのときヒントとなるのが「今と出会うために時計は時を刻む」なのではないかな、という気はさしあたりしています。「君のファンタジック…なんてねっ」が意図的にかなぐり捨てた、救済の為の手順の一つ一つを、リトバスはもう一度回復すべきなのではないかというわけです。
 
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